発熱の文(ほつねつのもん)

行者発熱の文 1


 如来の恩寵を仰いで微かなりとも、光明に接すれば、従来の己がはなはだ卑屈なることを感ずべし。じつに己は恩しらずの罪人、無慚愧の動物なりと罪悪感を昂むるにしたがって、如来を頼む心もいよいよ強くなるべし。
 大光明を得ざれば解脱し難しとおもうときは、ますます煩悶の度を進めん。弥陀を欣慕するの情を深く起こし、「われはただ仏にいつかあふひくさ」と、その至誠熱烈なる信念をすなわち煖位とす。この煖みが心霊の孵化を被る内因にして、恩寵と仰ぐところに大なる慈悲の温熱に抱擁せらるべし。


現代語訳

〔日々、南無阿弥陀佛と称え〕如来様の恩寵を願い求め、わずかでもその光明に触れることができたならば、これまでの私はなんと自分自身を卑しめ、いじけた生活をしていたのだろうと感じることでしょう。実に私は恩知らずの罪人であり、自らを恥じ、反省することのできない愚かな動物であると罪悪感を高めていくにしたがって、如来様にすがる想いもいよいよ強くなるのです。
〔如来様の〕大光明に導いて頂かなければ、この苦悩から解放されることは難しいと思うときは、ますます煩悶の度合いが進むことになるでしょう。〔しかし、その煩悶が縁となり、〕如来様を欣慕する情を深く起こすことができるのです。〔法然上人が歌われた〕「私がただ願うこと、それはいつの日か、如来様にお目にかかりたい」と、そのような至誠にして熱烈なる信念を起こすに至った者を〔智慧の火が灯る前触れの煖(あたた)かな段階〕煖位(なんい)というのです。この煖かさが、心霊の孵化を誘発する内なる要因であり、〔また如来様の〕恩寵であると頂くところに、大いなる慈悲の温熱に抱擁されるのです。

解説

 辛い経路ではありますが、人生の道(信仰の道)を歩む上において、煩悶することは避けては通れないことです。しかし、それが縁となり、信仰の熱がおこり、凍てついた卑屈な心から慈悲の温熱に暖められた心へとお育てをいただけるのです。
 光明に触れるもの(お念仏を精進するもの)は、苦悩の原因が自らにあることに気付き、さらにはその苦悩の受け取り方が、ただ取り除くものという消極的な考えではなく、如来様を欣慕するエネルギーとして積極的に活かされていくという恩寵の中に、信仰の道を歩んでいくことができるのです。

出典

『宗祖の皮髄』改訂版110頁

掲載

機関誌ひかり第699号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」