行者発熱の文(ぎょうじゃほつねつのもん)

行者発熱の文 2 心本尊の導き


 アミタ如来の聖き霊によりて人の魂を生まれかわらせて、人々のこの身が即ちいける如来の本堂となるのであります。真に如来を信じ、深く愛して、如来の御意を欲みますると、アナタは常にその人の心の宮にましまして、なげきにはなぐさめの声となり、いかりの炎には清き雨となり、憂きが中には安かれよとの御手を賜わり、よきことには為せよ為せよ、いさみてせよ、しりぞくなというようにおもわるる。わるきことは、わが心にやどりたまう霊の御声はなすななすなとおもわるる。くらきにも心にあかるきを覚え、おそろしきにも安きを与え、すべての真と、いと高き善と、いと美しき徳とは是より生じて来ますのです。これを得るなれば、身はここに居ながら魂は聖衆であります。いか成ことでもやせがまんでなく、よろこんですることができます。なやみにも憂きにも娑婆の身にあるも、心のおくには、聖き光になぐさめられます。古人の「うきことのかさなる身こそうれしけれ、聖きめぐみのたよりとおもえば」ともいわれし人さえあります。
 よきこともあしきことにも、うきにもよろこびにもみな、如来の聖き光、尊きおぼしめしをおもうて、それに引きかえてしまうのであり、聖き御名をとなえて、その尊き思し召しが、自己のこころにあらわるるように御祈りなされ候ことが最も肝要にて候。


現代語訳

 如来様の聖き光によって、人の魂を生まれ変わらせ、人々のこの身が、活きた阿弥陀さまの本堂となるのです。真実に如来様を信じ、深く愛して、如来様の御心を求めますと、如来様は常にその人の心の宮にいらっしゃって、嘆きにはなぐさめの声となり、怒りの炎には清き雨となり、辛い時には「安心しなさい」と御手を差しのべて下さり、善きことには「しなさい、しなさい」「勇んでしなさい」「退いてはいけない」と思い至らせてくださいます。悪いことには、わが心にやどる霊の御声は「してはいけない、してはいない」と思い至らせてくださいます。暗いときにも、心の中に明るさを与えて下さり、恐ろしいときにも、安らぎを与えて下さり、すべての真と高き善と、美しき徳が、如来様のいらっしゃる、この心の宮より生じてくるのです。この心の宮が完成したならば、身はこの世界に居ながら魂は浄土の菩薩となるのです。どのようなことでも、やせ我慢ではなく、よろこんで勤めることができます。悩みにも、つらい時にも、この娑婆世界の身として生活していても、心の奥には聖き光になぐさめられます。昔の人の中に「つらい事の度重なる身を実は喜んでいます。〔なぜならばつらい出来事は如来様の〕聖なる恵へ向かうお便りであると思えるからです」という人さえいます。
 善いことも悪いことにも、辛いことも、楽しきこともみな、如来様の聖なる光と尊き思し召しと思って、それに引きかえてしまうのです。聖なる御名「南無阿弥陀佛」をとなえて、その尊き思し召しが、自己の心に表れるように御祈りされることが最も肝要なことです。

解説

 この書簡は東京の在家信者に宛てたお便りで、非常に具体的に、平易に如来様からの恵を説いて下さっており、お念仏の生活へと発熱を促して下さいます。
 「いか成ことでもやせがまんでなく、よろこんですることができます。」そのような、光明の生活の心境へと至らせていただく為に「聖き御名をとなえて、その尊き思し召しが、自己のこころにあらわるるように」精進していく外にありません。

出典

山崎弁栄上人お便りの一説 『御慈悲のたより』中巻「一」改訂版七頁&『辨栄上人書簡集』「九四」三一六頁より

掲載

機関誌ひかり第700号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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