発熱の文(ほつねつのもん)

発熱の文 19 光栄の務め


 大ミオヤなる如来は、我ら一切衆生の心霊を麗しく染なされんが為に、清浄歓喜智慧不断の光明を以て永しえに照し給うも、我らはその霊光中に在り乍ら、ただ世の五塵六欲に眼に耳に染汚されて幾年月を経ても、弥陀の霊光に浄化せらるる光栄をなすこと能わで、来る秋も来る秋も空しく過ごし、再び得難き今日を徒らに暮しゆくこと、実に慚愧に耐えざる処、彼らは年毎に有終の美を呈して天のミオヤの恩恵に報い奉つるに、清き同胞衆よ我らはいかにぞ受難き人身を受たる甲斐として、実に有終の美なる人生を剋果すべきや。自ら反省して自己を照察し給え。而してまた我らは何にして大ミオヤの大悲に報うべきぞ。弥陀は霊光赫々として我らが心霊を照らし給う。我らは聖名を称えて聖旨の現われを仰ぎ霊光に触れて初めて霊に活きることを得ん。而してのち霊化の光栄を身に口に現すように為ってミオヤの聖寵に報い奉る。


現代語訳

 大いなる親である如来様は、私たちすべての人々の心霊を麗しく染るために、清浄・歓喜・智慧・不断の〔四種の〕光明を常に照して下さっています。しかし、私たちはその霊光の中に生活していながら、ただ世俗の〔色・声・香・味・触の〕五塵、眼・耳〔・鼻・舌・身・意の六根に関する欲望である〕六欲に染汚されて、幾年月を経ても、如来様の霊光に浄化され、栄光〔の勤め〕を為すことができず、来る秋も、来る秋も空しく過ごし、二度と帰ってこない今日を徒らに暮してしまうこと、実に慚愧に堪えません。このような日々を過ごしている者でも、毎年の年末には、神仏に一年間の恩恵に報い感謝しているのです。〔光明主義の〕清き同胞衆よ、私たちは、受けることが難しい、人の身として生まれ、その甲斐を現すために、〔また迷いの世界を抜けだすため、〕どのようなことを、〔一年の終わりだけではなく、〕この人生を通して成し遂げるべきでしょうか。〔そのことを〕自ら反省して、自己〔の至らなさ〕を明らかに察知していくべきでしょう。そしてまた、私たちは何をして如来様の大いなる慈悲に報いていくべきなのでしょうか。如来様は霊光を輝かして、私たちの心霊を照らして下さっています。私たちは〔南無阿弥陀仏と〕聖名を称えて、聖旨の現われを願い、霊光に触れて始めて、霊に活きることができるのです。その後、霊的に育まれ、光栄〔の勤め〕を身と口に現すことによって、如来様の聖寵〔を頂いた御恩〕に報いるのです。

解説

出典

『人生の帰趣』岩波文庫版四一七頁。『日本の光』改訂第五版、五二四頁より。

掲載

機関誌ひかり第717号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」