第44回 法のつどい

佐野 成昭

 5月12日(土)~13日(日)「第44回法の集い」が、京都市大本山百萬遍知恩寺にて合計58名の参加を得て開催されました。
 一日目晴二日目雨で、多い順に関東地区より23名(内13名は光明学園の先生)、近畿14名、中部11名、九州7名、中国四国3名が出席しました。例年70名程でしたが今年は10名程申し込みが減りました。他に心の光のコンサートのみの参加者が10名いました。今年は、光明学園の教頭先生及び校長先生もご参加下さいました。若く元気のよい光明学園模原高等学校の先生が参加され、お掃除などお手伝い下さり有難いことでした。
 今回も、イスラム教に造詣が深くキリスト教の宗教家でありマスコミで様々な文学の批評家として著名な若松英輔先生が大変お忙しい中、日曜日の13時半より1時間を割いてご講演下さったことは、有難いことでした。弁栄上人著作の『人生の帰趣』を岩波文庫の文庫本採用決定にご尽力下さり先月の17日出版されました。先生は我々よりもむしろ、山崎弁栄聖者の光明主義信仰を感覚的に深く理解されている所があると思われます。他宗教から見るとその素晴らしさが客観的によく分かるのでしょう。本の読み方について、量より質で、今日の一語を見つけることが大切だと語られました。

 プログラムは、公告されていた藤本浄彦先生が急用で来られなくなったので急きょ大南龍昇上人が代講をされるという変更がありましたが、以下のようになりました。12時受付、13時聖歌「月かげ」斉唱後、知恩寺執事上人からご挨拶があり、今回金田理事長病欠のため、友田達祐上人の挨拶で開会式が始まりました。それから亀山政臣師維那大木で念仏一会が始まりました。14時より15時まで知恩寺台下のご垂示(法話)があり、休憩を挟んで16時より福岡県大願寺の金田恭俊師の講話がありました。17時昏暮の礼拝。17時50分より食堂に移り、京弁当を頂きました。18時半より百回忌に向けての心の光コンサートが19時半から20時迄あり、30分念仏後20時半から入浴、22時就寝でした。
 翌日5時起床5時半大殿で勤行念仏、退堂後念仏一会、7時半朝食。その後、清掃と休憩。8時半朝の礼拝・念仏。聖歌「清浄光」斉唱後、9時30分大南龍昇上人法話、小憩後、11時聖歌「聖きみくに」斉唱と回向・念仏。12時昼食、12時50分念仏一会、13時20分聖歌「如来讃」斉唱後、若松英輔先生の講話が14時45分迄。その後、大方丈で記念写真撮影。15時閉会式では、矢野司空専務理事他のご挨拶があり、聖歌「のりのいと」を斉唱し別れを惜しみ、整理整頓し15時半解散しました。

心の光コンサート
 尺八の矢野師は、「百回忌を前に今回が最後のコンサートにふさわしい日本の薩摩琵琶演奏家の塩高和之師を御招きしました。仏教がシルクロードを経て伝来したように、琵琶も同じように伝来し、最後の地で日本独自の琵琶となって「祇園精舎」のように琵琶語りの文化を結実させました」との司会をされました。
 一曲目の「祇園精舎」は、「ジャランジャラン」と始まる音は、仏教の無常観が感じられました。また、「壇ノ浦」では、運命的悲壮感がにじみだされ琵琶独自の弦をこする「サワサワ」という音が、内面的な心の動きを感じさせるものでした。
 尺八のみの演奏後、最後の曲は、矢野司空師の一音成仏の尺八とのジョイントで、お経の「開教偈」でした。日本音楽の上にまさしくお経そのものを塩高師が語っていました。

 各ご法話を筆者は次のように受け止め概要にまとめました。

第一席「諸行に超えた念仏」福原隆善台下
 世界の宗教の主な聖典は、キリスト教もイスラム教も真理は一つなので一つです。しかし、仏教は、八万四千の法門があり多い。それは対機説法の故です。その一部の教典を選ぶので宗派が多い。そこで、法然上人は教典を選ぶのではなく、凡夫の私の能力に合わせて、本願の意によって浄土宗を打ち立てました。どの宗派も浄土宗におさまると法然上人は『東大寺十問答』で述べています。また、『十二問答』では「浄土一宗の諸宗に超え、念仏の一行の諸行に勝れたると言う事は、万機を摂する方を言うなり」(『昭法全』六三二) つまり、「浄土宗は諸宗を超えており、念仏の行は、諸宗の行の中で勝れている事は、全ての人に合うからです」ということで法然上人が八百年以前に広めて下さった大変尊い教えですので、どうか皆さんもそれを受け継いで下さい。
第二席「至心に深く信ず」金田恭俊師
 『礼拝儀』の本文前の頁の語句について御話します。信仰が確立し安心が得られる前に陥り易い3つの間違いがあります。それは、
1、極楽願い…極楽を願うが契約のように考え、肝心な阿弥陀様が〈心に〉いない。
2、能力願い…能力成長を願い阿弥陀仏様がいない。
3、先祖崇拝…先祖が大切で阿弥陀様が後の方になっている。
 自分は、罪悪の凡夫であるけれど、阿弥陀様は本願でかならず凡夫のまま救ってくれます。
 私は、食事中にスマホでラインをやっていると、家内から過去の不満も含めて文句を言われた。こちらも正しい言い分があったが、本堂で念仏した。始めは、作戦会議の心ばかりだった。しかし、その内クールになり、妻に謝った。しかし、妻はまた文句を言ったので本堂へ行った。そんな凡夫なのですが、そんな私をも阿弥陀様は救って下さると信じています。
第三席「岩波文庫 『人生の帰趣』について」光明園園主・元大正大学教授大南龍昇上人
 先月の4月17日若松英輔先生と河波定昌先生のお陰で大望の岩波文庫出版弁栄上人著の『人生の帰趣』が発行されました。
岩波文庫の出版の基準方針は、学術的に確かなもの、末長く価値のあるものであり、それで四年前に選ばれました。しかし、解説・校正をするはずでした河波先生が二年前に逝去されましたので、解説に若松先生が、校正と解題に私が、注解は、当初通り藤堂俊英先生がすることにより、予定より一年遅れました。校正は、3400箇所の語句のチェック作業がありましたので多くの時間を要しました。
 弁栄上人の教えは、この本を読めば、まとまって分かるとされたものを田中木叉先生が、選んで編集されています。何がまとめられているかと言うと、
1、ご伝記       
2、人生の最終目的 
3、全世界の大本、大ミオヤ 
4、その光明(目に見えぬ心の働き) 
5、念仏三昧(修行法、その内容と境地)
6、光明生活(理想の生活)   
7、お歌 
8、年譜
となります。
第四席「人生の帰趣」若松英輔師
 〈帰趣とは、人の帰り趣く先=最終目的で、完全円満人格完成の仏に成ること〉 
 今回初版の「欲望(意思の信仰)」の文をレジメとして用意しましたので皆様と味わいたいと思います。意思の信仰を考えると、2つの道があります。それは、向上道(願作仏心)と向下道(願度衆生心)で、それらを欲望するということです。どちらが大切と言うと私は、向下道だと思います。なぜかというと、人生のゴールの仏に成ることは、向上道を選びますが、仏とは、一切衆生と共に円満に完成する道をも含んでいるからです。弁栄上人は、向上道だけで満足していることを戒めています。仏のこの向下道の願を満たすため、「全生全力を献げて聖意に仕える」ことが本当の信仰です。

 私達の殆どは、私個人の意思で生活し、仏の意思は1%と少ないです。しかし、正しくは逆転せねばならないのです。そうなるには、光明の力を借りねばなりません。
 弁栄上人の言語を読む時、現代と意味が異なるので注意してほしい。現代の言語と比べて独創的で新しい。例えば、「宇宙」という語は、各文化・宗教により意味が異なる。現代人の科学的理解の銀河宇宙という内容も超えており、もっと広大な不変的な世界を現している。それは、外的にマクロコスモスをも含み、内的にはミクロコスモスをも含む。人の内面の精神界を含みます。その不変的な立場に立った方向性でものを見ている。「霊性」という語も日本的霊性という地球の場所の違いや宗教の違いを超えた不変的な意味がある。

 霊性は、いつも開花しようとしているが、私の肉体が押さえつけている。一切の幸福を犠牲にして肉を押さえれば、霊性が活動し現われる。例えば、キリストや釈迦が肉をせめたように。
 キリスト教徒の私は、光明主義を歩むのではなく、異教異質の弁栄上人の本を読んで自分の信仰を深めたいから読んでいます。弁栄上人、こんな思想家は、誰もいないというような二十世紀を代表する思想家と言えます。しかし、二十一世紀の言語の知識では、まだ読めない。二十二世紀になるかも知れない。
 筆者は、この講義に出席して、弁栄上人が、一切の自分の幸福を犠牲にして、自分の肉をせめることに大いなる強い意志をもって徹底していたかが認識させられ勉強になりました。それで一切智を得たのだ。おいしい物、便利、理性発達を求めて幸福になろうとする今日の世状と真反対であると自覚させられました。聖者の遺稿を理解するには、聖者の生涯をならい、光明会式別時念仏をよく知り、よく実施して読まなくては少ししか分からないと、先達に言われていますが如何でしょうか?

以上