他場所 平成26年11月

第93回 唐沢山別時念仏会報告(続)

植西 武子

先月号にて掲載すべき「参加者の感想」は限られた紙面の制約上、掲載できませんでしたので、今月号にて紹介させて頂きました。

なお、投稿下さいました村石恵照上人について、今回ご参加下さった経緯を含めて、紹介させて頂きます。

8月の上旬にメールにて唐沢山別時についての問い合わせがありました。初めてのお方で、住所も電話番号も記載がありませんでしたので、光明園に問い合わせしました。河波上首はご不在でしたが、佐藤蓮洋尼様が調べて下さいました所、河波上首の住所録にお名前がありました。河波上首と何かの研究会で一緒にお仕事をされたこともあったようでした。その後、光明園に来られたこともあって『光明園短信』が送付されており、それを見て、私の方に問い合わせがありました。二三のやりとりの後、ご参加下さるお返事を頂きました。

村石恵照上人は文末で自己紹介をなさっておられますので、それ以外のことで、紹介させて頂きます。村石上人はポーランドで20数年に亘り仏教活躍されております。奥様はポーランドのお方で西本願寺で得度を受けられました。ヨーロッパ人で得度を受けた(西本願寺で)最初の人だそうです。大変ユニークな経歴をお持ちの方で機会があれば、是非詳しくお話しを伺いたいお方です。

唐沢山別時念仏の記

村石 恵照

(一)

仏教は「ご縁の宗教」といわれます。私が「第九十三回 唐沢山別時念仏会」(平成二十六年八月十九日~二十五日)に今回初参加のご縁をいただいたのは、 かって大学教員として同じ印度学仏教学会に所属していた関係で、学会で時々お会いしていた河波定昌上人とのご縁があったからです。その後、東京の光明園を訪れて以来「光明園短信」を送っていただき、今回の「別時念仏会」の案内を知り参加させていただくことになりました。 唐沢山における別時念仏の全日程一週間の内、私は初日より二泊三日の参加でありましたが、下山の当日、世話人の植西武子さんと林さんから初参加の感想文を書いてほしいとのご依頼をうけましたので、個人的な感想を記すことにいたします。

山と山の間の彼方に諏訪湖を見晴らせる霊地で好天に恵まれて修道に参加でき、河波上人、世話人の方々、 浄土宗僧侶の方々に 厚く御礼を申し上げます。念仏の調声もわからず木魚を勝手に叩いてしまい、何年も参加されている方々や、特に修道全体に責任のある維那さんには随分ご迷惑をおかけしたことと思います。参加の感想文をよろこんで引き受けたのはお詫びの機会にしようとの、自分勝手な考えからです。

私は自宅で時々一人で木魚をたたきます。普通、人間でも猫でも叩かれる方は痛いでしょうが、木魚のなかに音が入っているわけでもないのですが、叩くと音が出てきて、しかも叩き方によって色々な音が喜んででてくるような気がします。しかし、こんな叩き方をされては伝統ある別時念仏の修道の妨げになるわけで、修道期間中に沈黙を守り続けている維那の僧侶の懇ろな注意にひたすら恥じ入るばかりです。

私は浄土真宗に属する者で委細は省きますが、宗教的には多少変わった経歴の持ち主かもしれません。概略をのべれば、大学在学中に、曹洞宗、臨済宗を問わず、短期間ですが、在家の人々を受け入れている鶴見の総持寺や北鎌倉の円覚寺などで参禅していました。五十年ほど前のことで記憶は不確かですが、三島の龍澤寺には、二年間ほど八月と十二月に各一ヶ月間滞在していたと思います。龍澤寺は専門道場で禅僧以外は受け入れないのですが、ぶっつけ本番で訪問した折、中川宋淵老師がおられて受け入れてくださいました。雲水さん方と同じ生活をしましたが、禅寺の伝統的修道体系に感心しました。朝研いだ米のとぎ汁は捨てずに五右衛門風呂の釜に入れて入浴に利用し、翌朝はその湯水を使って廊下を雑巾がけし、汚れたとぎ汁は本堂裏の畑に撒いていました。食事の時は、最初に各自から箸でひとつまみのご飯を一皿に集めて食後に外に撒いて小鳥たちの餌とします。ご飯は必要な分量だけいただき、食事の最後に湯をご飯とみそ汁の茶碗に入れて、 一切れ残しておいた沢庵できれいにして、その湯は飲んでしまいます。食器と箸は布巾で拭いた後、その布巾で包みますから食器をあらためて洗うことはしません。小欲知足の生活で、実に合理的です。「禅は習禅にあらず」ということです。

しかし、ささやかな禅堂生活の体験は五十年ほど前のことで、今の自分はまったくだらしのない生活で、今回、特に浄土宗の僧侶方の仕草をかいま見て、伝統仏教の僧侶の生活マナーのよいことに感心しました。もちろん在家の参加者も皆さん温和で、修道中ですがなごやかな雰囲気でした。

(二)

修道体系自体はさておいて、 禅と念仏は同一の仏教の修道の両極であるように見えます。禅の修道は座禅であり沈黙の行であるに対して、念仏は称名念仏で発声があります。「大いなる沈黙へ」というキリスト教の修道僧の沈黙の生活を描いたドキュメンタリー映画があります。ある評論家の解説によれば「ここでは沈黙が戒律であり、僧たちの間にもほとんど会話がない。個室での祈りもわずかに唇を動かすだけで、声に出しては祈らない」ということです。

僧侶のための禅堂における沈黙の座禅と、カトリックの修道院で生涯独身を誓うキリスト教の僧たちの寡黙の祈りと、僧俗平等の立場で修道する念仏三昧のどれがすぐれているかといった馬鹿げたことを考えているわけではありません。

なぜ、日本の仏教から外国のカトリックの修道僧の話題がでてきたのかといえば、私と妻がポーランド、ワルシャワで二十年以上念仏の活動をしているからです。ポーランドは九十五%がカトリックの信者の国ですから、大方の日本人は、圧倒的多数のカトリック信者に囲まれている少数の仏教徒の状況を実感できないでしょう。「わたしと世界」の諸関係の一切が縁起でありますから、念仏する「わたし」は、おのずからカトリックの祈りをする僧たちを支えているキリスト教世界にも縁起的にかかわっているわけです。また三十歳前後の三年間、イスラム教徒の職場にいましたから、地球儀を眺めながら宗教を観察しているような習慣が身に付いてしまっています。しかし、いずれもご縁であり、差別即平等である立場から諸宗教を見ていると思っています。

私は、仏教学が専門といっても浄土真宗に一番ご縁があるのですが、宗派的なこだわりはありません。ですから宗門に固執する人からは変わった人物かもしれません。

年に一、二回、江ノ島の太平洋を見渡せる場所に行って海を眺めます。無限の数の波頭が一瞬もとどまることなく全世界の海に躍動していて、一つの波頭は他の一切の波頭と連動していますが、すべてはただ一つの水の表面的な変化なのです。私は、太平洋の海をながめながら、自分流の「華厳経海印三昧」を味わっていると思っています。

(三)

唐沢山阿弥陀寺を下山し帰宅してから大南先生の「念仏修行の道しるべ」の冊子を拝読しました。念仏三昧の極意が簡潔に述べられています。仏教の核心的教理は「四諦八正道」であり、それに関連して七覚支が説明されており、「念仏三昧の所期は見仏にあり」ということを弁栄上人は体験にもとづいて説いておられます。先に私は浄土真宗に所属するとのべましたが、見仏を一段劣った方便のようにみなす傾向があります。私は修道体験をはじめから無視するような形式的な浄土教の教学には問題があると思っています。
仏教とは慈悲にもとづく縁起であります。迷悟不二に即してしかも、迷いの世界のただ中で無上菩提をめざす念仏成仏の道であれば、自分にご縁のある修道が本人にとって最善の仏道であると考えています。特に伝統仏教の各宗派の僧侶方は各宗派のすぐれている修道の部分を互いに学ぶべきであると思います。

最後に、特に初参加する人のために、僭越ながら提案を述べさせていただきます。修道期間の初日に、三十分ほどでよいので、修道中の日課(起床と就寝の合図、修道の目的、称名念仏の発声の要領と木魚の扱い、私語を慎む態度などの諸注意を説明するオリエンテーション)の時間を設けてはいかがかと思います。その後を正式な修道開始の期間とします。また修道の最終日に修道が終了した時点以後は多少寛いで、一時間ほど参加者同士の仏縁を深める意味で、簡単な自己紹介と任意の参加者が感想を述べる時間をもうけてはいかがと思います。一人で参加して同室の人の名前も知らず、一人下山してゆくのも純粋な修道を守る意味でよいかもしれませんが、念仏者は今生に念仏のご縁で相見え、往生後に再会の約束をする者でありますから仏法の語らいのなかで人間的交流を促すことも有意義のことと思われます。以上は、愚案であります。ご笑覧くだされば幸いです。合掌。

(平成26年8月23日 記)

著者 村石恵照。武蔵野大学客員教授(元教授)。専門分野は(主)仏教学(副)日本文化論、ジョージ・オーウェル研究。