聖者の俤 No.86 乳房のひととせ 下巻35 聞き書き 其の十一

乳房のひととせ 下巻32

中井常次郎(弁常居士)著

11 聞き書き 其の十一(つづき)
大正九年八月十八日~二十四日信州唐沢山阿弥陀寺別時説教

 人は平生何事が無くとも、煩悩が無いのではない。眠っているのである。時々目を醒まして罪を犯す。忿、恨、覆、悩、痴等二十通りの煩悩がある。かかる厄介なものを持っている自分が、自力で成仏できぬと知らば、宗教の必要を感ずるようになる。人間以外の動物は、自分の汚れを知らぬ故に宗教の必要がない。人間には餓鬼や畜生になる性分と反対に、如来に霊化される良い性分もある。
信法――如来の実在と恩寵とを信ぜよ。如来の実在を信ずるとも、その救いを信ぜぬならば無効である。一心に念仏すれば、清浄、歓喜、智慧、不断の光明により人格は高められる。
 信に三通りある。仰信、解信、証信
 人により天性で信ずるあり、理性で信ずるあり、霊性で信ずるもある。口に仏名を、称うるも、心が外の事を思うては何にもならぬ。
仰信――自分を愚鈍の身になし、ただ一向に信じて念仏せよ。初めは何の感じなくとも、次第に感じて来る。赤子は初めから目が見えているのでは無い。乳を飲んでいる間に見えて来るのである。ただ一向に信ずるのが仰信である。「なぜか」をいわぬ。
解信――仏法の道理を理解して信ずるのが解信である。信仰により煩悩が霊化されるのは念仏の功徳である。煩悩という賊が念仏により霊化されると、仏道の仕事をする味方となる。信仰が育ち、心の花開けば、欲生心は盛になり、やがて実を結ぶ。
 人格を大別すれば、一、非人格。二、人格。三、霊格。
非人格――地獄、餓鬼、畜生の性分はこの部類である。ただ、身体が丈夫に育ち、子孫の繁栄を喜ぶ如きは、動物に異らぬ。それでは、人と生まれた甲斐がない。
人格――修羅、人間、天上の性格者。これらは仁、義、礼、知、信の徳を持っている。けれども、これだけでは成仏できぬ。
霊格――永遠の生命を自覚せる聖者。この光明生活をする霊格者に、上品上生より下品下生まで九通りある。
 念仏すれば成仏すると信ずるは仰信である。迷信は信実ならざる事を信ずるものなれば、如何に努力するとも望みを果たす事ができない。稲荷さんを信仰した人が金を儲けたからとて、誰でも同じように儲からぬ。しかるに仏法は、上下の差別あれど、早晩仏果が得られる。迷信は人格を向上させぬ。身を潤す最大の法は仏法である。『論註』に「如来の光明は法界に満つ」というに、何故、その光明が吾々に見えないのか。それは、信仰の目が無いからである。無明の盲者には如来の光明は見えない。
 解信は理性によって信を起こすのであるから、学問すればよい。証信は学問だけでは開けぬ。
証信――懷感禅師は善導大師について念仏三昧を三週間勤めたが、何の証も得られず、罪障の深きを感じ、三年間念仏三昧を精進し、遂に三昧発得なされた。これが証信である。

往生は世に易すけれど皆人の
誠の心なくてこそせね

 『大経』に「易往無人」とある。念仏すれば、一々お答えが有るけれども、凡夫には聞こえぬ。心が外にあるからだ。如来に真正面に心を向けぬからお声が聞こえぬ。如来の御声はこの肉の耳で聞く事ができない。禅宗では、隻手の声を聞け、という。音なき声は、心に悟る為である。念仏では両手の声を聞くのである。片手は如来で、片手は吾等の信仰心である。如来の慈悲の空気が、宇宙に充ち満てる故、南無と手を打てば、有難い音が出る。
 ロウソクに火をつけるには、方向を誤ってはならぬ。方向が正しくとも、ロウソクを火に近づけねば、火は燃え移らぬ。真宗の和讃に「信心まことにうる人は、憶念の心常にして、仏恩報ずる思いあり」というのがある。これは、心に信仰の火がついた姿を歌ったものである。
 如来の光明が、まさしく感ずるようになったのが発得である。発得は非常にむつかしいものではない。世尊は決してむつかしい事をお勧めなさらぬ。念仏は如来の慈悲の現れである。自分ばかりならば、心は暗く、罪を造るばかりであるが、念仏により慈悲が入り来たり、如来は吾が念頭を離れぬ。そこで如来の慈悲心が燃え移る。煩悩は炭の如く、これに如来の火がつけば、人格が改まる。声聞、縁覚は煩悩の炭が燃え失せて灰となったようなものである。灰に火は移らぬように、二乗には如来のお慈悲は移らぬ。かくの如く、如来の光明を受けぬ善は真の善でない。境遇によって、それは悪になる。故に禅では、悟らぬ前の善悪は、皆悪であり、悟ってからの善悪は一切善であるとする。
 信に敬と愛となければならぬ。宗教では本尊を尊崇する事が大切である。即ち如来に対する尊敬の念が大事である。尊崇性が開発されると、益々仏が有難くなる。動物には尊崇性が無い。馬は何を見ても頭を下げぬ。馬が偉いのでは無い。尊きものを感ずる性を持たぬからである。信仰が進めば、如来のお姿とお心とが自分の心に映るようになる。霊化されて智慧と慈悲とが自分のものとなる。

祈りても志るし無きこそ志るしなれ
おのが心にまこと無ければ

「聖者の俤」について
「ひかり編集室」は、現在、聖者の偉業を「新・真・深の法門」として、皆様方にわかりやすくまとめるために、聖者のご遺稿や聴書等の整理をしています。
その一環として、聖者と縁者の出会いを、まとめていきたいと思っております。
いかにして信仰の火が、聖者から縁者に伝わっていったのか?またどのような心境の変化があったのか?その経緯をひもといていくことにより、聖者とこの『ひかり』の書面を通して出会い、さらには私達の心にも、火を灯していきたいと思います。
ひかり編集部より
本稿は弁栄聖者とご縁の深い中井常次郎(弁常居士)様の著『乳房のひととせ』上巻より抜粋して掲載しています。この本は昭和16年に発行されましたが、現在入手困難となっており、未読の方も少なからずいらっしゃると思います。ここで再録し、聖者と著者との出会い、信仰の深まり、そして聖者の人格とご法話に触れていきたいと思います。現代仮名遣い、旧漢字を現代常用漢字に改めるなど、読みやすさを最優先し掲載いたします。
また〈 〉の中の表記はひかり編集室にて、前の単語熟語を説明し、また難解な文を補足した箇所です。