聖者の俤 No.84 乳房のひととせ 下巻33 聞き書き 其の十一

乳房のひととせ 下巻32

中井常次郎(弁常居士)著

9 聞き書き 其の十一
大正九年八月十八日~二十四日信州唐沢山阿弥陀寺別時説教

(一)念仏三昧を宗となし、往生浄土を体となす

 念仏とは己が心を全く如来に打ち込む事である。自分の暗い心と、如来の光明とが一つになると、暗い心が明るくなる。闇が如何に深くとも、光明には勝てぬ。光明来れば闇は去る。我等の心は無明の闇や罪〔や〕汚れある故に、それらを除かねばならぬ。即ち宗教の必要がある。自分が罪悪生死の凡夫だという事を知り、解脱したいという心が起こらねば、宗教を求めない。信仰に入って仏に同化されると、何ともいわれぬ有難さと楽しさを感ずる。生まれながらの人間は人生の目的を知らぬ。けれども、念仏すれば如来の智慧光に照らされて、人生の意義が知れて来る。如来の御姿が見えずとも、誠に信ずれば有難さを感じ、力が湧いて来る。心のロウソクに如来の火がつけば、それから信仰生活が始まる。心に如来の光が着いた時、三昧成れりという。如来と自分とが一つになる。即ち光明獲得を宗とし、光明生活を体とする。
 お釈迦様の時代から、心の生まれ更わりと体の生まれ変わりとがあった。即ち有余涅槃と無余涅槃があった。如来の光明が燃えつけば心が広くなる。そして入信前の自分を考えて見れば、空しく生きんが為の獄中にあった思いがする。業の獄中に苦しんでいた者が、念仏により業障、罪障が除かれ、生死の獄から引き出される。広い天地に出されると楽になる。これを有余涅槃という。
人生は如来に向かって進む向上の生活である。極楽へは往き易く、地獄へは行き難い。念仏すれば法爾の道理として極楽に生まれるけれども、殺生の如き恐るべき罪を犯さなければ地獄へは行けぬ。
 人間には罪障が有る故に、初めから仏性に信仰の火が着かぬ。念仏により先ず業障、罪障が燃え失せて後、本性が現れて如来の光明が燃えつくのである。
 三昧の初めは「習修」といって、学ぶのである。如来の光明が燃えつけば発得したのである。信仰の過程で暖味を受けるは、線香に火が着けられたようなものであり、己が心に如来の慈悲が明らかに受け取られたのが発得である。平生の念仏は、仏心仏行になるためである。

(二)南無の二義

 救我と度我――これを安心の南無と起行の南無という。この世で最幸福と最高徳とを兼ね持つは難しい。これを兼ね持てるは聖人である。けれども、極楽では誰にでも、これが実現する。真の幸福は如来に救われねば得られぬ。信仰に入れば、現在は心だけ幸福であるけれども、身は尚、因縁に左右されて自由でない。この世は無常、苦空である。それ故に救我の要求が起こる。そして真の幸福は形の上になくして心の上にある。生まれた儘の人(信仰により心の手入れをせぬ人、即ち無信仰の人)は惑業苦のために、まことの幸福が得られぬ。如来の光明により、智見が開けると、解脱を得、自由の人となる。
 真宗では「信心を獲得し、感謝の心が起こった時に救われたのだ」としている。その上は正定聚不退転の身にして頂いた事を有難く思うより外なしという。真宗には救我の信を得た人が多い。しかるに、今までの浄土宗では、臨終にならねば、明らかに救われたといわれぬ。
 光明主義は南無の二面即ち救我と度我の二つを完備している。浄土宗では、現身で救われた、生まれた、よみがえったといわぬが、光明生活という本を書いたり、演説する。光明生活とは、救われた生活の事である。どうも矛盾している。かかる人の書いた本は信頼する値打ちが無い。
 真宗の欠点は、度我の願いの少ない事である。
「度」とは「ハラミツ」即ち向上する事である。念仏も始めから、うまく行かぬ。一心に相続すれば、次第に進み、徳が高くなる。幸福を感じさえすればよいという念仏ならば、救われた上は、娑婆で生きているよりも、早く死んで極楽へ往生する方が利巧である。この世の暮らしは感謝ばかりではない。名刀は焼かれ、打たれ、研かれて成る。仏は神通力を以て衆生を救うほど楽しい事はない。菩薩も同様である。度我に就いては、真宗は如来に任せ切りである。

(三)第十八願

 如来に法性法身と方便法身とある。これを法身と現身或いは本仏と迹仏ともいう。
 如来とは如何。法性は一切万法の根源である。天地万物、一として法則によらぬものは無い。この時の「法」は「本体」である。本仏は造られたもので無く、できたものでも無い。人間の有無に拘らず実在するのが本仏である。この本仏の働きから、衆生を救うために現れたのが迹仏である。法身より受けたる仏性を開発するのが報身仏である。お釈迦様は報身仏の心の奥まで能く御存知である。
 猫に人間界の事を聞かせても解らず、赤子に親の心を知らせる事ができないように、心眼の開けぬ凡夫に浄土や仏様の御姿は見えず、お声が聞こえない。けれども親子対面のできるように、応身仏がこの世に出られるのである。即ち浄土なる親の許へ帰える道を教えるために出世されるのが、お釈迦様の如き応身仏である。応身仏がこの世に出られるには一定の法則がある。それは八相応化の法則である。

「聖者の俤」について
「ひかり編集室」は、現在、聖者の偉業を「新・真・深の法門」として、皆様方にわかりやすくまとめるために、聖者のご遺稿や聴書等の整理をしています。
その一環として、聖者と縁者の出会いを、まとめていきたいと思っております。
いかにして信仰の火が、聖者から縁者に伝わっていったのか?またどのような心境の変化があったのか?その経緯をひもといていくことにより、聖者とこの『ひかり』の書面を通して出会い、さらには私達の心にも、火を灯していきたいと思います。
ひかり編集部より
本稿は弁栄聖者とご縁の深い中井常次郎(弁常居士)様の著『乳房のひととせ』上巻より抜粋して掲載しています。この本は昭和16年に発行されましたが、現在入手困難となっており、未読の方も少なからずいらっしゃると思います。ここで再録し、聖者と著者との出会い、信仰の深まり、そして聖者の人格とご法話に触れていきたいと思います。現代仮名遣い、旧漢字を現代常用漢字に改めるなど、読みやすさを最優先し掲載いたします。
また〈 〉の中の表記はひかり編集室にて、前の単語熟語を説明し、また難解な文を補足した箇所です。