聖者の俤 No.75 乳房のひととせ 下巻24 聞き書き 其の十

乳房のひととせ 下巻24

中井常次郎(弁常居士)著

8 聞き書き 其の十
当麻山無量光寺にて
八月四日よりの十二光仏講義

無辺光

 相(象)大 処として照らさざるなし

四大智慧
(仏陀) (凡夫)
大円鏡智―アラヤ識
平等性智―マナ識
妙観察智―意識
成所作智―前五識

 宇宙全体は弥陀の本体であって、物心不二の大霊体である。物心不二であるが、精神に重きを置く故に、相とは心の相である。その本体の相が無辺光である。
 吾等の心は宇宙全体心の一部分である故に、共通性を持っている。大海の波は全体としての水の上に立つ如く、吾人の心は宇宙心の一分現である。
 心の体と相とをいわば、心は思うも思わぬも、体に変わりが無い。思えば相をなす。四大智慧を現代語で示せば

(全体心)       (個性心)
絶対観念態(大円鏡智)―観念(アラヤ識)
一大理性(平等性智)―理性(マナ識)
相関的性(妙観察智)―認識(意識)
感覚性(成所作智)―感覚(前五識)

大円鏡智
 人間を離れて宇宙全体を見れば、主観と客観の別なく、宇宙は一大観念態である。これを人が内観すれば主観となり、外観すれば客観となる。吾々は時間、空間に障りなく、物を思う事ができる。フェヒネル曰く「感覚は、窓より室の内を見る如く、観念は、直観にして、窓より外を見る如し」と。『首楞厳経』に仏が阿難に、心の本体を悟らす話がある。或日、阿難が供養を受けて帰る途中、渇を覚え、水を汲んでいた賤しい身分の娘に水を乞うた。娘は浄水を汲んで阿難に捧げた。阿難の気高い相好と、やさしい言葉に、乙女心は全く捕われた。娘は家に帰り、まじないに通ぜる母に「どうぞ、阿難尊者を招いて下さい」と願うた。母は「欲を離れた人に、まじないは無効である事と、尊者を賤しい家へお連れ申せば、王様は自分達を皆殺しにするかも知れぬ」といった。けれども、思いつめた娘は、我慢ができず「もう、死にたい」といって泣いた。母はやむなく、魔術を使った。心、乱れた阿難は、ふらふらと娘の家に至り、喜ぶ母子に迎えられて室に入った。まさに罪を犯さんとした阿難は、一心に世尊のお救いを念じた。
 世尊は天眼を以て阿難の危難を見給い、光明を放って、その室を照らされた。それで、阿難は難を免れて祗園精舎に帰る事ができた。(この談、筆者、聖典より補う)
 仏「阿難よ、おまえの心に迷いある故、罪を犯そうとしたのだ。内心の賊に捕われて、罪を犯すのである。その賊を捕えるのが戒であり、賊を縛るのが定であり、それを切るのが智慧である。されば、賊を捕えるには、その居処を知らねばならぬ。心の本性を明らかにすれば、賊の居所がわかる。先ず心の本性を明らかにせよ」と仰せられた。
 阿難は心の本体に就いて問い詰められ、七度、答えに窮した。
 仏「心は内にあらず、外にあらず、中間にもあらず、内外一体なり」と明かされた。心は行くに非ず、来るに非ず。ハミルトン曰く「観念にはてなし」と。
 主観とは知りうる心にて、客観とは外界の相である。宇宙万物は如来の中のものである。しかるに衆生は、宇宙万物を自分の外に見ている。これを識という。識は研かぬ珠の如きものであって、暗き心である。自他の別なく全くほどけた心が大円鏡智である。十方三世の色心、一切が大円鏡智に映照する。
平等性智
 宇宙万象を観察するに、一定不変の理がある。秩序整然として乱れぬ。人に理性ある故に言行にきまりがある。分別即ちマナは理性による。人間は各別々の個体を持ち、一人として他と同一のものが無い。心もまた同一でない。内外の生活において、一つとして同一のもの無く、性質は皆別である。人間としての形式は一定であるが、個性我は皆別である。
 マナがほどけて、宇宙の最大自覚なる最終理性が現れると平等性智となる。
 純粋な水は一定しているけれども、たいていの水の中には沢山バクテリアが有る。普通の井戸水の一滴中に一万ばかりのバクテリアが有る。東京の水道の水には百ばかりある。これを瓶に入れて一日置けば、殆んど無くなるそうである。それで、一日置いた水で御飯をたけば長持ちする。一日で腐るものなら、三日もつ。
 平等性は純粋な水のようで、一定不変であるが、個性我は普通の水のように、一様でない。平等性にはへだて無く、如実に一切の真理を照らす。凡夫は我執あり、好き嫌いある故に、真理を如実に見る事ができない。
成所作智
前五識 五根(眼耳鼻舌身)→五境(色声香昧触)→五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)
 同じ物を見ても、人間と他の動物とでは、感じが違う。人間が見て喜ぶ美術品を、他の動物が見ても美とは感じない。「声ありてあや無きは禽獣なり」といわれる。
 人間は識であるが、仏は成所作智である。浄土は人工的の世界でない。如来の成所作智の現れである。凡夫の五識が成所作智となれば、思うままになる。浄土は想像即実現の世界であって、仏身、仏土は成所作智の現れである。
 凡夫は小さく心の戸を閉じているから、大智慧の中にありながら、真理が見えぬ。吾々は識の中に閉じ籠っている。

〈つづく〉

「聖者の俤」について
「ひかり編集室」は、現在、聖者の偉業を「新・真・深の法門」として、皆様方にわかりやすくまとめるために、聖者のご遺稿や聴書等の整理をしています。
その一環として、聖者と縁者の出会いを、まとめていきたいと思っております。
いかにして信仰の火が、聖者から縁者に伝わっていったのか?またどのような心境の変化があったのか?その経緯をひもといていくことにより、聖者とこの『ひかり』の書面を通して出会い、さらには私達の心にも、火を灯していきたいと思います。
ひかり編集部より
本稿は弁栄聖者とご縁の深い中井常次郎(弁常居士)様の著『乳房のひととせ』上巻より抜粋して掲載しています。この本は昭和16年に発行されましたが、現在入手困難となっており、未読の方も少なからずいらっしゃると思います。ここで再録し、聖者と著者との出会い、信仰の深まり、そして聖者の人格とご法話に触れていきたいと思います。現代仮名遣い、旧漢字を現代常用漢字に改めるなど、読みやすさを最優先し掲載いたします。
また〈 〉の中の表記はひかり編集室にて、前の単語熟語を説明し、また難解な文を補足した箇所です。