聖者の俤 No.34 乳房のひととせ 上巻 聖者ご法話聞き書き(時々承った話を集む) 2

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

乞食犬の話

飼犬と乞食犬とは、食物を求める時の作法がちがう事になっていた。ある時、乞食犬が片脚を外に、片脚を家の内に入れて物乞いをした。かくの如く、乞食犬が作法を守っているのに、家の主人は犬を打った。犬は大層怒った。法によって物を乞うにも拘らず、人間でありながら、吾を打つとは無法であるとて、役所へ訴え出た。そして彼を町の頭にしてくれるように頼んだ。なぜかというに、彼は必ず自分勝手な悪い事をするにちがい無い。そうすれば、地獄におちるであろう。私は彼ほど悪くは無かったが、今犬になっていると語った。

山中鹿之助の一番鎗の話

山中鹿之助は南無八幡大菩薩と称えて、一番鎗を入れたそうだが、後には南無八幡大菩薩ではいけない、南無阿弥陀仏でなければならぬと知ったそうである。(私【中井常次郎】には長らくこの味が解らなかった。しかるにお念仏を相続したお蔭か、その後十年にして、まことに、その通りだと有難く思われるように成った。解脱の相である。)

助かる心について

真宗の助かるは、救我である。罪におちるのを助けて頂く事である。川に落ちて溺れんとする児を助ける様な救いである。真の助け給えは、捨児を拾い、養育して立派な人間に仕上げる事である。罪に亡ぶる者を霊に活かし、今より永遠に、如来の光明中に活き働かしめる事である。生きるには食べねばならぬ。肉体は団食(捕食ともいって、食物を手でつかんで食べる事)する必要がある。心は霊の糧を食わねばならぬ。

キリストはいった「人はパンのみにて生くるに非ず。聖書は心の糧なり」と。如来は吾等に心の糧を与えて下さる。われらの心はその糧を食べて永遠に活きる。生まれたからには、度々食べねばならぬ。念仏は心の糧である。これには法喜禅悦という味がある。平生何となく心が豊かで、やわらぎあるは法喜である。禅悦は念仏三昧中に与えられる霊感である。信仰が健全ならば、念仏生活にこの味わい即ち覚えがある。肉体を養う食物について、やせているのに、食べてもおいしくないのは、消化器が悪いのである。念仏しても味わいを感ぜぬならば、不健全な信仰と思わねばならぬ。ただし母の胎内にある間は、食えども味わいを知らぬ。赤子も同様である。少しく物心つけば、食物に味わいを覚える。念仏も初めは無理にさせられるから、甘味が無い。真の信仰ができると甘味を感ずるようになる。

一度助かったならば、もう念仏はいらぬというのでない。生きていると新陳代謝の働きがあるから、たえず念仏を申して信仰を育てねばならぬ。断食は苦しいものだ。それと等しく、断念仏は堪えられぬ。毎日霊の糧を食べねばならぬ。念仏の必要が無いというのは、信仰が死んでいるしるしである。極楽では今のように念仏の必要は無いかも知れぬが、今は煩悩多き故に、それに捕われぬため念仏を忘れてはならぬ。この恐るべき悪魔に気付かば、すぐ念仏して如来に相談する事です。自分ひとり考え込んではならぬ。暗くなればランプをつけなさい。ランプに眼を向けよ。光明に背を向け、頭を垂れて、ひとり思いに沈めばなお暗くなる。

信仰に智的信仰あり、情的信仰あり、意志的信仰あり。人間には汚れに染みやすい弱点がある。悪しきものを見た時に起こる瞬間的の汚れを除くのが、感覚的信仰による。深入りして習慣となった酒や煙草の如きは感情的信仰によって除かれる。

採集したままのダイヤモンドには光がない。これを磨いて珠とせねばならぬ。人の心も清浄光によりて六根清浄の珠とせられる。

大乗仏教は人間を五位に分かつ。人、天、声聞、縁覚、仏乗の五つとする。肉眼清浄は人間界、天眼清浄は天上界、慧眼清浄は声聞 縁覚界、法眼清浄は菩薩界、仏眼清浄は仏界である。五官の内、眼の外の耳鼻舌身についても同様である。人間の肉の五官は機械的であるが、天眼は神通感応により、肉眼を用いずして自然界が見える。肉眼、天眼等は自然界の色声香味触を感ずる。二乗の慧眼は超感覚界、宇宙全体何もなく、精神のみあり。法眼は自然界を超越して、霊妙な感覚世界を感ずる。慧眼は智慧の世界を見る。仏眼は慧眼と法眼とを統一した境界を見る。一微塵中に一切万物の世界が映っている。天の星が吾々の眼に映るように。一切が一つ入る。また、天に一月あって影万水に宿る。一が一切に入る。

(つづく)

「聖者の俤」について

「ひかり編集室」は、現在、聖者の偉業を「新・真・深の法門」として、皆様方にわかりやすくまとめるために、聖者のご遺稿や聴書等の整理をしています。

その一環として、聖者と縁者の出会いを、まとめていきたいと思っております。

いかにして信仰の火が、聖者から縁者に伝わっていったのか?またどのような心境の変化があったのか?その経緯をひもといていくことにより、聖者とこの『ひかり』の書面を通して出会い、さらには私達の心にも、火を灯していきたいと思います。

ひかり編集部より

本稿は弁栄聖者とご縁の深い中井常次郎(弁常居士)様の著『乳房のひととせ』上巻より抜粋して掲載しています。この本は昭和16年に発行されましたが、現在入手困難となっており、未読の方も少なからずいらっしゃると思います。ここで再録し、聖者と著者との出会い、信仰の深まり、そして聖者の人格とご法話に触れていきたいと思います。現代仮名遣い、旧漢字を現代常用漢字に改めるなど、読みやすさを最優先し掲載いたします。
また〈 〉の中の表記はひかり編集室にて、前の単語熟語を説明し、また難解な文を補足した箇所です。