聖者の俤 No.30 乳房のひととせ 上巻 聖者ご法話聞き書き(授戒会の説教) 2

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

三聚浄戒は父の憲法であって、神聖、正義に当り、念仏は母の愛にて、恩寵に当る。我等の本性は法身より受けたものであるが、罪のために、報身の如来に会われない。儒教では、本性を明徳といっている。

大み親は報身仏である。吾等は徳なく、心は空である。報身仏より徳を受けて円満になる。この徳を無漏善という。これに対して、娑婆の善を有漏善という。有漏善は、ロウソクの如く、消えて、再び用いられない。

大み親の子として、吾々は皆、兄弟である。人を他人と思わぬ故に、人からも慕はれる。信仰が進めば、他人が少なくなる。

南無と申して、自分の汚れた心を如来様にささげると、その代わりに徳を与えて下さる。徳本上人は、

鬼も蛇も皆出よでよとせめ出して
住ませておけよ阿弥陀ほとけを

と歌われた。

良心は人の行為を正しく導き、悪い心をとがめる大切なものであるが、未だ信頼するに足らぬ。良心に絶対的価値なし。良心は、風俗や習慣により異なるものである。印度人は片はだ〈肌〉を露わして恭礼し、西洋人は乳房を見せるのを恥じる。

正見は絶対的に信用できるものである。正見の持主を覚者という。如来は何故、吾等を完全なものとして生んでくれなかったか。それは可愛子に旅をさせよ、という親心からである。苦しみが大なれば、楽しみも亦大きい。

この世界で、心を磨くのである。極楽には悪が無いから、修行がしにくい。それで、娑婆の一日一夜の修行は、極楽で百歳するにまさると経に出ている。

天の月日も、地の草木も皆、仏戒を守っている。人体の諸機関もこの戒を守らねば不幸になる。太陽が怠け者のように遊び、規則正しく働かぬならば、米が定期にできず、生物は困るであろう。

一、摂律儀戒

これに十重禁戒あり。

威儀戒というは行住坐臥に姿勢を正しくする事である。極楽に生まれて菩薩になれば、八万四千の威儀が保たれる。これらを犯しても、罪は軽い。今は是等をいわぬ。

十重禁戒は信仰の尺度である。又、心の鏡と見てよろしい。この戒を犯せば、死刑に相当する位に重く見られる。

  1. 快意殺生戒
  2. 不与取戒
  3. 不邪淫戒
  4. 酤酒戒
  5. 妄語戒
  6. 説四衆過戒
  7. 自讃毀他戒
  8. 慳貪不与戒
  9. 瞋不受悔戒
  10. 邪見謗法戒

(つづく)

「聖者の俤」について

「ひかり編集室」は、現在、聖者の偉業を「新・真・深の法門」として、皆様方にわかりやすくまとめるために、聖者のご遺稿や聴書等の整理をしています。

その一環として、聖者と縁者の出会いを、まとめていきたいと思っております。

いかにして信仰の火が、聖者から縁者に伝わっていったのか?またどのような心境の変化があったのか?その経緯をひもといていくことにより、聖者とこの『ひかり』の書面を通して出会い、さらには私達の心にも、火を灯していきたいと思います。

ひかり編集部より

本稿は弁栄聖者とご縁の深い中井常次郎(弁常居士)様の著『乳房のひととせ』上巻より抜粋して掲載しています。この本は昭和16年に発行されましたが、現在入手困難となっており、未読の方も少なからずいらっしゃると思います。ここで再録し、聖者と著者との出会い、信仰の深まり、そして聖者の人格とご法話に触れていきたいと思います。現代仮名遣い、旧漢字を現代常用漢字に改めるなど、読みやすさを最優先し掲載いたします。
また〈 〉の中の表記はひかり編集室にて、前の単語熟語を説明し、また難解な文を補足した箇所です。