聖者の俤 No.25 乳房のひととせ 上巻 聖者ご法話聞き書き(別時の説教) 2

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

22日

個性は滅びない。個人となっている間に受けた業を以て死し、生死に流転する。

声聞は小我を滅ぼして、宇宙精神と合一するを目的とする。その目的を達したのが羅漢である。羅漢は小我を滅ぼして生死を解脱しているけれども、真如の徳を顕す事ができない。

大乗の教えは、心を宇宙精神と合一せしめ、個性を仏にまで向上させ、仏陀としての働きをなさしめる。これを菩薩という。菩薩に五十一段の階位がある。

声聞は個性を真空にし、無能にする。菩薩は仏の徳を体現する。(父病気の電報に接し、帰郷せしため、以下筆記を欠く。幸にも、後年、日高居士が、私の不在中に筆記されたものを、発表されたものが有るから、それを次に記す。)

人間の肉眼は動物の眼と同じである。この眼だけではいかぬ。知識の眼が開かぬといかぬ。知識の眼だけではいかぬ。信仰の眼が開けねばならぬ。釈迦如来が出世せられて、信仰の眼を開く法を説かれた。

子供が乳を飲んでいると、親の顔が見える様に育つ。生まれた初めは、眼が開いているけれども、親の顔が見えない。信仰も、これと同じである。人々は霊性を持っているけれども、そのままにして置いては、現れない。信仰によって育てなくては、霊性は現れぬ。仏性は卵の如く、温めねば孵らぬ。天の親様を一心に信仰すれば、仏性は立派に孵る。弘法大師の《作と伝わる》歌に

空海の心の中に咲く花は
弥陀より外に知る人はなし

信仰により咲ける霊性の花は、弥陀より外に知る人はないという事である。このうま味は信仰の無い人には解らない。卵でも、ひなどりとなれば、親鳥のあとをつけて歩む。卵のままでは、ついて来ぬ。人も信仰に入り、霊性の眼を開けて頂けば、大み親の有難さが知れてくる。そして親のあとを従いて行くようになる。

南無阿弥陀仏というは、ひなどりが親鳥の跡を従いて行くようなものである。信仰により、永生の霊が生きてくる。人間は形ばかりを自分と思うから、先が闇で淋しい。卵は、温めずに置けば腐る。信仰により、仏性がひなどりとなれば、卵の殻のような此の身から抜け出る。早く此の殻の身から抜け出て、殻に執着なき仏性のひなどりとならねばならぬ。観世音菩薩や文殊菩薩などいう「薩」は信仰なき凡夫の心である。信心ができ、大ミオヤの心が幾分でもうつれば菩薩[菩とは悟り、薩は衆生]である。菩薩にも色々あって、月に譬うれば、太陽の光を少しも受けぬのが、無信仰の人即ち新月である。少し光りを受けると三日月となる。観音菩薩は十四日の夜の月の如く、諸仏は満月にあたる。観音様は、私共に、信仰すればこの様になるぞと、手本を見せて下さっている。観音様の宝冠に、仏様の御像を安置しているのは、心にいつも阿弥陀様を頂いている事示す。

弥陀の光明を得れば、誰も、かくなれるのである。観音様のやさしい、お慈悲に満ちたお顔は、心の徳即ち心の相を表したものである。入信の初めは、赤子のようであるが、次第に親様の光を受けて育てられ、観音様のようになる。観音様は、私共信仰の人の大兄様でいらっしゃる。

私共の肉体は太陽の光によって生かされ、精神は弥陀の光明によって活かされる。釈迦如来は、この光明を私共に知らしめんが為に出世なされたのである。お釈迦様は八十才で、お亡くなりなされたが、真のお釈迦様は阿弥陀様である。私共の心の親様は阿弥陀様である。それが信じられ、霊が活きて来れば、死ぬもので無い事が解ってくる。中味が死ぬから、それがわからない。身は大切であるが、中味を保つための殻である。中味は霊魂である。この殻の身を借りている間に、霊魂がひなどりとならねばならぬ。

念仏の念の字は二人の心からなる。仏は心の親様。その親様が、いつも心にかかって忘れられぬのが念仏である。凡夫の心は煩悩である。自分勝手で、慈悲が無い。炭のようにまっ黒である。炭に火がつけば赤くなる。冷たい炭が熱くなる。一心に念仏すれば、親様の智慧と慈悲とが、われらが煩悩の炭のような心に燃えつく。そうなれば、何となく有難く、楽しくなる。仏の御名を称えて念仏するのは、火をうちわであおる様なものである。あおげば、あおぐほど火が盛んになるように、至心不断に念仏すれば、如来の光明は心に燃え盛る。炭の無い処に火は燃えつかぬ。如来のお慈悲も、私共の煩悩の心に燃えつくのである。炭に火がつけば、火になる。炭と火が一つになる。炭だけでは冷たいけれども、火が燃えつけば、それに手をかざせば暖かくてよい気持ちがする。心に如来の光明が燃えつくと、心が暖かく、楽しくなる。人に同情する心となり、如来様と親しくなる。

英国のエリザベス女王は「もし霊魂を失わば、五大州(地球の五大陸)を獲るとも、何かせん」といったそうである。霊魂を失うとは、死ぬ事をいうのではない。人間に生まれた真意を知らぬことである。信仰により、心の珠を研かぬと、何のために、此の世に生まれ出たかが解らぬ。ただ食べて生きるだけならば、犬猫と変わらぬ。人間は信仰により、霊にめざめ、大ミオヤの御許へ帰る資格を造らねばならぬ。学校へ行くのは弁当を食べるためではない。勉強して知識をつけるためである。人間という学校で、八十年の間、毎日弁当を食べて、親様のお恵みを喜び過ごすばかりではいけない。心に研きをかけねばならぬ。ただ食べて遊ぶばかりではいけない。人間学校の教師は、お釈迦様である。教えを受けて、立派に卒業せねばならぬ。自分の心が真っ暗で、汚れていては落第である。草花の種を蒔いて、花を咲かすは、一朝一夕でいかぬ。信仰も同様である。急に心の花が咲くものでない。常恒不断に念仏して、お育てを蒙らねばならない。

「聖者の俤」について

「ひかり編集室」は、現在、聖者の偉業を「新・真・深の法門」として、皆様方にわかりやすくまとめるために、聖者のご遺稿や聴書等の整理をしています。

その一環として、聖者と縁者の出会いを、まとめていきたいと思っております。

いかにして信仰の火が、聖者から縁者に伝わっていったのか?またどのような心境の変化があったのか?その経緯をひもといていくことにより、聖者とこの『ひかり』の書面を通して出会い、さらには私達の心にも、火を灯していきたいと思います。

ひかり編集部より

本稿は弁栄聖者とご縁の深い中井常次郎(弁常居士)様の著『乳房のひととせ』上巻より抜粋して掲載しています。この本は昭和16年に発行されましたが、現在入手困難となっており、未読の方も少なからずいらっしゃると思います。ここで再録し、聖者と著者との出会い、信仰の深まり、そして聖者の人格とご法話に触れていきたいと思います。現代仮名遣い、旧漢字を現代常用漢字に改めるなど、読みやすさを最優先し掲載いたします。
また〈 〉の中の表記はひかり編集室にて、前の単語熟語を説明し、また難解な文を補足した箇所です。