近畿支部 平成30年6月

弁栄聖者生誕兼教学念仏会

佐野成昭

 平成30年3月24日京都事務所念仏道場にて近畿支部主催弁栄聖者ご生誕念仏会を兼ね教学別時念仏会を開催しました。京都府久美浜在住川本剛空上人(西方寺住職)をお迎えし、『十二光』を興味深く、重要で大切なご法話を拝聴しました。これまでの近畿支部主催の教学念仏会と夏の誕生寺別時では、光明主義のメインの著作、『礼拝儀』を、弁栄上人百回忌までに終了し、それに関連して、更に奥深く、十二光の講話をして頂きました。ご法話は次のように受け止めました。〈 〉内は筆者の挿入。

一席目 「十二光」
 十二光は、歴史的にほとんどその内容が説かれてこなかったのですが、弁栄上人は「私は、十二光を説くため生まれて来た」と語っています。山本空外上人も高く評価しています。西洋的な哲学で考えると、真理は漏れて説けないですが、十二光では、宗教、道徳、哲学、科学が体系化され矛盾なく説かれています。これは、ある意味奇跡的な事です。西洋では、それらは、別々の真理であるとされていて、哲学真理で宗教を解けないし、カントが道徳を哲学真理で基礎づけようとしたけれど、出来なくて失敗しました。しかし、道徳・倫理は、十二光できちっと基礎づけられています。十二光の特に無礙光や不断光で。尚、現代中国は、孔子の道徳の教えで罪を犯した親でも子は守ることになっているため汚職が多い。ニーチェが、「道徳は、絶対的でなく相対的で権力を高めるだけだ」と語っています。全てをうまく説明出来るのは十二光です。しかも、お念仏をしたらどうなるかが説かれていますので〈次第に目標が出来て〉日常の私達に大変役立つのです。
 明治三十八年弁栄上人により、初めて、「十二光和偈」という名で十二光が発表されました。この頃までは、『阿弥陀経』を中心に説いていましたが、以後『無量寿経』で説いています。『阿弥陀経』を五字にまとめると「今現在説法」です。『無量寿経』のポイントは、「三相五徳」で、十二光で説明追跡が出来ます。つまり、五徳とは、清浄・歓喜・智慧・不断・総徳の五つが内容となって込められています。空外上人の推測の年、大正四年に最も詳しい「如来光明讃の頌」が発表されましたので、それを含めて今回説明します。その後、『礼拝儀』の中で十二仏の前に総徳を現す「無量壽仏」が、追加されています。その無量壽仏で「本有法身阿弥陀尊 跡を十劫に垂れ在し」ここの本地垂迹〈本来の姿である仏・菩薩が衆生を救うために仮の姿をとってこの世に現れること〉とは、天神様は、元仏〈阿弥陀〉様ということです。
 最初の無礙光迄の三光仏が、宗教形而上論と言い、阿弥陀仏は、何者かが説かれています。次の無対光・炎王光は、宗教摂理が、私達がどうなって行くか説かれて、次の不断光迄の四光が宗教心理で、心はどうなって行くかが、次の超日月光迄が、宗教倫理で人はどう成る〈べき〉かが説かれています。
二席目 「無量光」
 『礼拝儀』の「法報応の本地〈阿弥陀仏〉なる」この法身〈生みの如来〉の法は、法則でダーウィンの進化論の法則が含まれます。この法身から世界(性)が生れ、衆生(性)が生れます。これを生産門と言います。従来より仏教学者は、誰もこんな解釈はしません。一方、人から如来(性)の方を向く方を摂取門と言い、その如来(性)を報身〈育ての如来〉と呼びます。図の下る方向と上る方向があるので、「独尊〈=如来〉統摂〈統治〉帰趣〈帰り着く〉」と礼拝儀に書かれています。
 この生産門と摂取門をはっきり図の縦の線のように割り切るのがカントの理性であり、現代でも切れたままですが切れるものではないです。
 なぜ、法身から世界(性)が出て来るのか? それは、如来蔵〈本来備わっている仏と同じ本性〉縁起だからです。縁起とは、引き連れて来ることで、縁滅(終わり)がない。キリスト教では、世界の終わりも始まりもあるので、そこが仏教と異なります。縁起には、1業感縁起―体が伴う縁起。2頼耶縁起―心が伴う縁起。3真如縁起―自然の中の動き。4法界縁起―宇宙の動き。5如来蔵縁起―如来が我々に隠れているという5つがあります。如来蔵縁起には、1所摂蔵―宇宙(法身)には如来様が存在している。2隠覆蔵―人の中に仏になる可能性が隠れている。3能摂蔵―隠れていたもの、つまり、仏性が働き出して来る。
 如来様に応じて行くと、応身と言い、代表がお釈迦様です。我々人間もしっかり念仏して小釈迦として応じて行く。それを霊応身と言います。それは、私の心の中にまざまざとうつる阿弥陀仏のことです。我々の方を向いてくださる報身について記載されている弁栄上人のご本を読んでいると、報身の四大智慧と法身の四大智慧が入れ替わっている記載があります。法身・報身・応身が即一だからでしょうか?
 十二光の記録をさかのぼって行くと、法然上人とその前に生まれた新義真言宗の覚鑁上人〈1095-1144〉著の『阿弥陀秘釈』の中に見られます。それには、大日如来も阿弥陀仏も同じだと書いてあります。念仏もすすめています。弁栄上人は、読まれてご遺稿に残されています。
三席目 無辺光
 『礼拝儀』の語句「四大智慧(四智)」は、『華厳経』にありますが、『選擇集』にも有り、名号には、「四智・三身〈法報応〉・十力〈仏の十の能力〉・四無畏〈四つの畏れ抱かせない力〉等の一切の内證の功德(効き目)」と、相好・光明〈十二光等〉・説法・利生〈利益〉等の一切の外用の功德」があると書かれているように万徳の功徳があります。そのため、念戒一致(浄土宗僧侶はほとんど知らないこと)となります。つまり、念仏が深まれば戒が自然と守るようになるということです。
 弁栄上人は、「衆生は隠れた阿頼耶が迷いと現われ、主客〈見る側と見られる側〉となり、自我が生れる」旨を述べています。自我が生れて自分勝手をします。例えば、子供が机にキズをつける等です。そんな時母親は、「机さんが痛がるでしょう」と〈主客を離れて〉叱る。その見方でものの命を大切にする。弁栄上人の考え方です。〈筆者の私もこれが、重要なポイントと考えます。具体的には、机という物だけでなく、人の心も対象で、心にキズを付けるいじめ、そして、殺人に導く行為迄。仏教の主の戒は、不殺生です。弁栄上人は、「殺すなかれ汝が霊格を」と語っています。主客の対立を超え活かし合うのが宗教です。主客を超え一つになるのが念仏三昧です。〉
 西洋人は、物と心を分けます。神・仏と人を分けるのがキリスト教です。例外として、東方教会は分けません。
 四大智慧を、空外上人のプロチノス論を断層的に当てはめると、次となります。

  1. 「大円鏡智」を弁栄上人は[観念]と記すが「一者」に当たる〈プロチノス哲学において、世界の根源をなす第一の最高原理のこと〉。別府上人は「宇宙のコンピューターに組み込まれていること」と説明していますが、それもありかと思います。
  2. 「平等性智」…弁栄上人は[理性]と記すが、ヌース(叡智)で、根源につながる理性に当たる。
  3. 「妙観察知」…[認識]と記すが、感応するプシュケ(魂、霊魂、生命)に当たる。
  4. 「成所作智」…[感覚] と記すが、ソーマ(身体)に当たる。

 阿弥陀様が、阿弥陀様自身であると考える時は、法身の四大智慧であります。阿弥陀様が、私にとってと考える時は、報身の四大智慧となり、大円鏡智は、いつも私を見ていてくださる。平等性智は、いつも愛してくださる。妙観察知は、私をよく分かってくださる。成所作智は、いつも良いようにしてくださると味わえると考えます。
 『礼拝儀』の「衆生の知見〈智慧に基づく認識〉を明かす」とは、転識得智〈[感覚]である眼耳鼻舌身の五識を成所作智に、意識を妙観察知に、末那識を平等性智に、阿頼耶識を大円鏡智に転ずること〉です。識は、知人かそうでないかとか、多いか少ないかと分けて考えることで、迷いであります。続きの無礙光からは、7月21日の誕生寺別時で行います。以上でしたが、まとめて見ると

結論
  1. 弁栄上人の十二光は、東西世界の思想・哲学・道徳・宗教を超え、真理(真善美)を現す、ある意味奇跡的で素晴らしいものです。
  2. ものを分けて考える私達の理性が誤りであり、対立を超えて一つに考えなくてはならないことが何回も説かれました。分析結果で得る合理化や利潤追求社会は、再考するべきことです。
  3. 光明主義の一大特徴、三身の三角図の説明の重要性が示されました。〈三角は宇宙の真理に最も相応しい形です〉今までも何回もこの図が書かれましたが、その度に少しづつ工夫されており、今回は、真半分縦切りのカントの理性の線が図のように追加されました。
  4. 光明主義にとって重要な報身に関して、私にとっての報身を、「四大智慧の大円鏡智等四つが、阿弥陀様がいつも私を見ていて下さる…愛して下さる…よく分かって下さる…良いようにして下さる」と説明されました。この事は、大変重要です。分かり易く、念仏の心の感覚と感情とがよく表された説明です。四大智慧を机の上であれこれ細かく説明するのは、大抵学問上の知識のみに偏り易いものです。本来四智体験の無い私達には、軽々しく言えない言葉です。しかし、念仏体験での感覚で感じた言葉になってこそ、本来の光明主義と言えるのではないでしょうか?

 今回も、『礼拝儀』の楽譜通りの「三礼」の節で称えさせて頂きました。現在各地の状況は、そうではなくばらばら異なった節で唱えられているので、『礼拝儀』の楽譜の音階でのCDを作成し、本部で検討して販売して頂きたいと思っています。昼休みに今回の講題「十二光」を川本上人が書かれた貴重な色紙を特別に県外遠くから来て頂いた熱心な出席者にプレゼントされました。例えば、朝一番電車に乗っても十時には、着けない方もおられました。
 その色紙包みの上に「鴻爪」と書かれてあり、その意味を説明して下さいました。これは、中国の詩句で「雪泥鴻爪」。中国人の謙遜の言葉で「雪後の泥道に爪の跡も残らないような詰まらないものですがどうぞ」という意味とのこと。「鴻」の字は書道理論に使う重要な漢字ですとの説明がありました。
 川本上人は、講話中に時々、こんな話を聴くよりは、お念仏するべきだと言われました。確かにそうで、木叉上人が言われるように、法話を聞きに来る間は、まだ赤ん坊の「はいはい」の段階です。立って一人歩きが出来る段階が、お念仏と礼拝儀・聖歌だけの別時となります。それが幼稚園・青少年の段階です。次が、数日以上の厳しい別時や単独別時で大人の段階と思います。「はいはい」段階前に、誕生・種まきと土作りの段階があり、現状の光明会は、「はいはい」前の段階が欠けています。特に土作りで、別時指導者のいる会所が大切です。肥料としては、第三者向けの本や視聴覚媒体で、日々に伝え、宣伝することが百回忌の弁栄上人に喜ばれることと思います。現代若者に宣伝し易い媒体は、アニメや動画ですので…。
                     以上