近畿支部 平成28年6月

近畿支部主催弁栄聖者ご生誕念仏会・教学別時念仏会

佐野 成昭

 平成28年3月26日京都事務所念仏道場にて近畿支部主催弁栄聖者ご生誕念仏会を兼ね教学別時念仏会を開催しました。ご法話は次のように受け止めました。〈 〉内は筆者の挿入。

午前一席目

 私が数年前移った丹後の西方寺は、光明会の川口善戒上人が明治28年に得度され、明治40年迄住職をされたことが今になって分かりました。それで聖者インド参拝記念像・書等があり、最近忙しくなり、ゆっくり隠居が出来なくなりました。キリスト教では無から有を創造しますが、仏教では違います。ご縁が有ったのでそんな西方寺へ入ったのです。
 今頃、足腰首肩等痛くなり、空外上人には「お前は馬鹿」と言われ、元々頭もだめ(笑い)。それで朝念仏の後、体操をしています。私が、最も山崎弁栄聖者の教えで感銘することは、宗教と学問とに線を引いて下さっていることです〈別々だ。筆者も全く賛同〉。
 聖者の教えの要点は「成っていくこと」です〈どう?〉。聖者初期の頃は、『阿弥陀経図絵』の布教中心だったが、後に『無量寿経』になった。「もっと早くそうしていれば、布教効果が大きかった」と述懐していた。『無量寿経』の「三相五徳」、つまり、仏を念じた釈尊のお顔が輝いて仏と成った」ことが要点です。「仏々相念」つまり、仏〈念仏する私〉が仏を念じて仏に成る。そうして人格円満に成ることが光明主義です。歴史的にそう成った人が善導大師、法然上人〈と弁栄上人〉です。大学等で机の上での理性根拠の学問をして仏教を語るのと、更生根拠でお念仏をして人格を深めて行き功徳を得ることとは別々のことです。つまり、学問・哲学と宗教は別だと聖者はおっしゃっています。この頃の「ひかり」誌を見るとお念仏を多くしてない前者の記事に変わって来ていることが残念です。
 今回は前回誕生寺の夏別時の続きで、
無礙光をお話しします。従来の光明会では、無量光、無辺光、無礙光がそれぞれ宗教原理として体・相〈姿〉・用〈働き〉に、清浄光から不断光は宗教心理、難思光は喚起位、超日月光を体現位に分けている。しかし、礼拝儀より詳しい十二光の「如来光明讃の頌」等を体系的理論的に読むと、無対光は体現位に炎王光は、喚起位に当たると空外上人が述べた。それには避難の声が多かった。聖者もこの二光は色々考えられた節があるようです。結局、理屈で考えると具合悪く、本当に無礙光仏に頭が下がること〈実感〉が大切である。
 神聖正義を聖者は「七仏通戒偈」を予想していたと思う。その偈と意味を出席者が問われると「諸悪莫作は、諸々の悪をなす勿れ」と答えた。それに対し、正確には「勿れ」の命令形でなく、「なしません」という主体的意志表現ですと説明。「衆善奉行=もろもろの善を実行」について「善」には倫理的なものと宗教的なものがあり、倫理は、カントの道徳的法則で考えるものですが、矛盾が生じる。しかし、宗教的善は矛盾が生じない。例えば、ロッキード社から賄賂をもらったら法律的に悪とされる。しかし、みかえりを行わず、貧者に渡したら倫理的に悪と言えない。私なら南無阿弥陀仏と称えながら、受けとり他人へ渡します。次の偈「自浄其意=自ら意(こころ)を清らかにする」の「意」は「心」と書くべきです。
 正義とは、選択選捨で「良い種は選ばれ、悪い種は選び捨てられる」と法然上人は語っている。選択行為には自由がある。その人間「人間は社会(ポリス)的動物である」と古代ギリシャの考えは社会が優先されている。しかし、現代我々は、個人を先に考えてから社会を考えるようになった。仏教もそうである。
 恩寵は、アガペー〈1真の愛。神的愛。2神の、人間に対する自発的、無条件的絶対愛。(デジタル大辞泉)〉です。聖者は「慈悲」と言う所をなぜかそう言わなかった。如来の恩寵を得て念仏が称えられるようになると節操がわきまえられるようになる〈曲がったことが出来ない〉。古代ギリシャで言う愛は、①アガペ、つまり母のような一方的愛。他に人間界の愛として②フィーリヤ=友愛と、③エロス=憧憬・憧れの愛がある。カリタス=慈愛もあるという説もあるがギリシャでは無い。「衆生を解脱し」とは、我々の苦を除き楽を与える「抜苦与楽」である。

二席目(午後)

あみだ仏というよりほかは津のくにの
 難にわのこともあし(葦)かりぬべし

 このお歌は、〈信心の〉始めであって終わりである。信じることは始め、つまり形式で、情が生れ慕って育つことが内容である。私の田舎の寺は貧乏寺というより辛抱寺で勉強させられる。しかし、足りないものが出て来だすと手に入る。
 現代教育は、疑いが起きて学問をする。古代ギリシャのように驚きから疑いが生じて学問に成るべきだ。しかし、信じるには疑いは少しも無い。そうでないと選択本願から漏れる。
 無対光「摂化せられし終局には、諸仏と等き覚位を得」の「覚位」は覚そのものではない。全く同じものではない。また、別物ではない。お通夜にあげるお経、梵網経の「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る、位大覚位に同じ 已りなば…」「おわり」を死んでからと言う人があるが、生きている内に惑が取れない限り、死後は取れない。聖者は〈位に入る〉ここを「衆生成仏」と言った。
 炎王光「衆生無始の無明より惑と業苦の極…」聖者は、無明から惑と業苦が起きるが、その垢質〈垢(あか)〉がこの光の働きで除かれる。人を変革していく効能がある。
 惑には理惑〈四諦の理に迷う我見・辺見などの見惑をいう(佛教語大辞典)〉及び事惑、つまり、生理と本能から来るものがある。人には、
1、邪定衆=念仏しない人
2、不定衆=天然的な人、念仏してるようでしてない人〈次の3でない人〉
3、正定衆=よく念仏して、み心に叶う人
3の人は、仏の位に入いることが出来る。
次の場合は仏の三不能〈不可能なこと〉である。
1、全ての人〈衆生〉を同時救済すること
2、因果の系列に逆行すること
3、縁無き衆生は度し難き
私は何か悪い事をしただろうかと思案し善をしても一向に幸福にならないことを嘆く人。苦の受け方で自己変革しようとしない人。変わりたくない、自己を我で保持しようとする人は難しい。

三席目

 次の清浄光より宗教心理を表わすもの、また、光化の心相〈光明化された心の相(すがた)〉と呼ばれるものですが、聖者が晩年主なお弟子をあえて集めて講義された重要な教え、小乗仏教の七科三十七道品の「四念処」に対応しているものです。
 清浄光の「六根」とは五つの感覚器官=眼根・耳根・鼻根・舌根・身根プラス意根です。それらの感覚を美化する働きの光が清浄光。
 古代中国では五根で感得する理解の仕方を重要視した。意(こころ)での理解は半解だ。現在の学校教育がそうなので、五根の教育が必要。家庭で五根教育を多いに実施すべきです。書道もそうです。〈筆者も同感。茶道も〉。〈グローバル社会において〉それが日本的なものです。聖者は五根には各々五位有りと言い、眼について述べられているが、他の四根についてはほとんど無い。眼根が浄化していくと、①肉眼、②千里眼等の天眼、③個々に覚(わか)ると慧眼、④全体としての覚ると法眼、⑤個々・全体両方で仏眼と成って行く。以上を五眼と言う。神まで征服しそうな勢いの自我の西洋思想家ゲーテの小説、『ファウスト』もあるが、自我が抜けて行くのが清浄光。
 歓喜光は、感情を融化する働きの光。迷い・苦が融けて楽化し喜びに変わる。聖者は成唯識論を用いていますが、孫・子供を比較する等、損得を計算する等は迷いであり、その結果四苦八苦が生れる。楽には①人天界の歓楽、②二乗界(声聞と縁覚)の無為〈滅っしない〉楽、③菩薩界の他受法楽〈衆生に悟りの楽しみを分け与える楽しみ〉、④仏界の自受法楽〈自らの悟りの楽しみを自らが楽しむ〉がある。
 智慧光は、私には分かり難い所なのですが、と前置きして、仏の知見〈仏の智慧によって見た見解〉を開示〈啓示〉する、つまり知見を与える働きの光。知見には開示悟入の四つがある。
「開」は、感覚的啓示〈仏の相好・宮殿等を霊的感覚で見ること〉。
「示」は、写象的啓示〈説法や徳を得ること〉。
「悟」は、理想的啓示〈仏の法身に証入すること〉。
「入」は、入仏法蔵〈仏の宝蔵に入り無生法忍・一切種智等を得る〉
智慧(エンライトメント)には次の5つ有り。
①人の智慧は、学修智。②天の智慧は、発明智。③二乗の智慧は、真空の智。④菩薩の智慧は、道種智。⑤仏の智慧は一切種智〈仏のもつ最高の智慧をいう〉。
不断光は、意志霊化の働きの光です。「作仏度生」が一つのキーワードです。作仏につき聖者は、
①布施〈完全な恵み、施し〉、
②持戒〈戒律を守り,自己反省する〉、
③忍辱〈完全な忍耐〉、
④精進〈努力の実践〉、
⑤禅定〈心作用の完全な統一〉、
⑥智慧〈真実の智慧を開現し,真実そのものを把握する〉
の六波羅蜜を言われ、これらで智慧(プラジュナー〈達成前の智慧〉)が出てくる。達成された智慧(ジュナー)には、①方便ハラミツ、②願ハラミツ、③力ハラミツ、④智ハラミツの四つの智慧がある。
 以上の達成で意志が霊化する。そして、仏に成る=作仏。ここまでは小乗仏教で、度生〈生きるものを救う・作仏させる・親切を尽くす〉が無い作仏は、大乗仏教ではない。作仏と度生はいつも密接なものである。「作仏度生の願みもて」の「願」は、欲と違う。欲は自分の為。願は社会皆の為。人と犬との違いは願いである。願いの無い人間は犬と同じ。生きる目的〈仕事等の達成とお念仏とのマルチな達成〉を考える。願の形で目的を持つ。これで初めて人間と成れる〈まさしくその通りと筆者は賛同する〉。
           
 昼食時に、私が中井常次郎先生の『如来光明礼拝儀講義』の読み難いカタカナ文体をひらがな文体にワープロで修正してくださる方を求めた所、二十代の参加者がして下さることになったことは有難いことでした。

 終了後、現状等について別部屋で川本上人、池田、水城、高山各氏と筆者と半時間程話合った。川本上人が語るには、
①聖者の掛け軸は転売されても無くならないが、聖者のご直筆原稿・手紙等の一次資料が失われるのは大変困る。過去に有った寺や会館に尋ねても無いと言われ、探させてもらっても移動したのか出て来なかった事があった。
②小冊子『大霊の光』もあるが、一次資料のある聖者の最も信頼出来て重要な書物は、『宗祖の皮髄』および『礼拝儀』。(尚、この機会に近畿支部の持つある法城寺の聖者のノートコピーを川本上人にお渡ししました)
③本来念仏行が優先なのだが、光明体系を学問理論として整理され公表すれば、学問の世界で関連書物も多く出るように発展する。そうすれば、念仏行を行おうとする人も増加するだろう。学問の世界で聖者のことを教材のテキストに初めて載せた学者は、まだ、知る限り一人のみ。しかも、まだほんの僅か、聖者の名前だけだ。もっと増えてほしい。
④本日の講話の筆者の質問「ある尼さんの炊く豆がとてもまずいのだが、聖者は、あなたは五妙感〈悟って得た五つの妙なる感覚〉を頂いてないからまずいのです(それを頂いておれば非常においしい)」と言われたそうで、その五妙感と本日の講義の五根に人間界から仏まで五位ありの五位と関連しますね? また、五根のそれぞれに五妙感を得ることですね?」に対し、「そうです。私なんかは、線上で点々としかそういうことが覚からないのです。しかし、空外上人は螺旋状に覚かります」と回答がありました。

以上