近畿支部 平成27年9月

近畿支部夏期別時会

佐野 成昭

近畿支部主催の夏期別時念仏会が、7月18日(土)1時半から21日(火)午前9時半まで、3泊4日の日程で行われました。会場は法然上人ご誕生の聖地、岡山県久米南町の誕生寺です。平均気温27度程、低目で冷房不要でした。但し、木々や川近くですので湿度がありました。漆間ご住職は、今年転倒され、首の骨異常で手術をされ、リハビリ中でしたが、奥様と共にあたたかく向かえて下さいました。広い境内の中の大庭前の奥まった静かな部屋は、お念仏には良い環境でした。総勢14名参加しました。

時間割

1時半念仏後、2時半より川本剛空上人のご法話(後述)を2時間拝聴しました。5時半より夕食と入浴、8時より念仏、9時半就寝。2日目は5時起床、5時半よりお念仏、7時半より本殿参拝。
お勤めの後、ご住職より誕生寺の由来についてお話を伺い、法然上人像(にっこりしているようでした)と対面拝観させて頂きました。
8時朝食後9時から朝の礼拝とお念仏。昼食の後、1時から休憩を挟んで5時半迄お念仏。夕食入浴の後、7時から9時迄夕の礼拝とお念仏。9時就寝。

3日目と4日目の起床は4時半。それに従って朝のお念仏の時間は長くなりました。最終日は、朝のお念仏の後、ご回向、閉会式。本殿参拝後、清掃。8時朝食と茶話会でした。

感想

別時の始まる前日台風で予定通り開催出来るか心配もあったが、「如来様との約束ですから(間違い無い)」とのことで無事参加出来ました。参加人数は少ないけれど、それだけ集中し易かった。その他、食事はデザート迄出て勿体無い程、聖歌のヴァイオリンの音色が良かった。古田上人は日常より体が休められた等でした。古田上人の大木は、誰よりもきっちり安定していてお念仏し易いです。

今年は、早くから大型台風の発生で初日ぐらいが岡山県通過の予想進路に入っていました。実際台風の目が前日寺を通過しましたが、誕生寺の被害はありませんでした。被害があったのは、大阪や和歌山でした。そのため、別時初日は、在来線が止まり、神戸市の参加予定者から参加キャンセルがありました。私も下りが開通していないJR山科駅でストップ、地下鉄に2回乗り京都駅へ行きました。幸い新幹線は動いていましたので乗りましたが、満員通路立ちでした。大きな荷物も有り腰を痛めました。和歌山からの参加者は、周囲が洪水の中、朝5時と早目に車で出発し、中国道入り口が閉鎖渋滞でした。しかし、すぐに開通し順調に間に合って昼過ぎ到着出来て有難かったとのこと。他に2~3時間遅れた車参加者もいましたが、とにかく予定通り無事御別時を達成出来、如来様、誕生寺様、古田上人と参加者に感謝したいと思いました。

「礼拝儀・歎徳章」と題する川本剛空上人のご法話の概要は、筆者は次のように理解しました。

別府信空上人の次男家族のご出席もあり、別府上人は「耳根最勝」とよく話されていた等と別府上人にまつわることをひとしきり話されて、「私が歳をとると(実際66歳)法話が難しくなる」と仰って始まりました。内容は近畿支部の春の教学別時の続きでした。

「歎徳章」の「仏道を得る」とは体現位で、それには二つある。

  1. 究竟成仏……念仏宗に近い:最高の仏に成ること。
  2. 見性成仏……禅に近い:心〈心眼〉の中に仏を見て仏になること。

弁栄上人の光明思想を、光明主義とか光明体系とか言います。体系とは欧米語でシステムに当たります。これは、何宗という宗旨に偏らない。弁栄上人は、例えば、『大乗起信論』をよく引用しますが、これは禅宗で用いられるもの。他にも『阿弥陀秘釈』は真言宗です〈キリスト教の聖書もあると思われます〉。

宗教は、学問・理屈は、知らなくても良い。唯、素直に信じてお念仏する方が余程良いです。行をした結果、その人がどんな人〈人格〉になるかが一番大切である。ここで筆者は、私が理想としたい礼拝儀の「至心に発願す」の「慈悲、歓喜…」の句、お釈迦様の多くのお徳を思い浮かべました。

「至心に勧請す」〈心底から仏の来臨を請う〉

この「勧請」という用語は真言宗、および善導大師の六時礼讃で使用されるもの。浄土宗では「奉請」という用語に当たる。

「如来の霊応を安置すべき宮なりと信ず」「霊応を勧請し」等とうたわれているように霊応が3回も記されている。霊応とは、その人の信仰に応じてあらわれてくださる仏様です。尚、真応身は報身のこと。

「至心に讃礼す」

十三仏有り、最初の「南無無量寿仏」で、総徳をあらわした。大正4年等にも創作されているが、大正6年笹本戒浄上人の下書きを弁栄上人が筆で訂正されているものが最終原稿である。「本有法身〈本々有り通し仏と言う〉とは、三身の一つではないのでくれぐれも」と笹本戒浄上人がおっしゃっています。唯一者・最高善・如来性に相当する。「本迹」とは本覚、つまり、本から在る仏(本仏)、および、修行して覚った始覚(迹仏)の仏の両方で、それらが「不二」一つであるということ。前者が真言宗や真宗で後者が浄土宗の立場である。「迹を十劫に垂れ在し」は宗教原理論を予想している。尚、「清浄光~不断光」は、宗教心理。「難思光~超日月光」が宗教倫理と予想される。

「南無無量光仏」「十方三世一切の法報応の本地なる独尊統摂帰趣に在す」は、独尊であり円成実性〈円満完全に成っている真の本性〉の阿弥陀仏が図で表現すると三角形の頂点に存在し、右辺が統摂(生産)、左辺が帰趣(摂取)となる。底辺部には、私達衆生性が存在し、遍計所執性(成唯識論)、つまり、損得・利益を計算し、それに囚われている生活をしている。その底辺と頂点の中間に世界性が有り、依他起性(成唯識論)、つまり、事物が縁によって生まれた世界である。ここで注意することは、「物を考えるように物を考える思考、つまり、物以外は存在しない」と考えてはいけない。インテンティオ(志向)、光に向くという態度が大切である。たとえ、業が有っても、お念仏をして阿弥陀さんに向くことである。

「無辺光仏」

「四大智慧」には、1、大円鏡智 2、平等性智 3、妙観察智 4、成所作智があり、次のギリシャ哲学の言葉に関係する。
1、一者(一なる者) 2、ヌース(叡智) 3、プシュケ(霊魂) 4、ソーマ(身体)・ヒューレ(自然)。

空外上人は、実証は出来てないが、以上のギリシャ哲学が弁栄聖者の仏教に影響したかも知れないと語っている。

「四大智慧の相」とは形を通して物の智慧を見る。それに徳の面の分有と形・お絵像等のお姿の縮現がある。この複製のお絵像は、複製だからと言って効能が無いと言えない(その形相からその働きがある。書も同様だ)。

以上