近畿支部 平成27年7月

弁栄聖者生誕兼教学別時念仏会

佐野 成昭

平成27年4月19日京都事務所念仏道場にて近畿支部主催弁栄聖者ご生誕念仏会を兼ね教学別時念仏会を開催しました。

京都府久美浜在住川本剛空上人(西方寺住職67歳)をお迎えし、昨年に続き『礼拝儀』のご法話を次の時間割で拝聴しました。その語り口は機知に富み独特のもので有意義でした。

午前10時礼拝念仏・午前11時法話・正午昼食・午後1時念仏・午後1時10分法話・午後2時休憩・午後2時15分法話・午後3時質疑応答後念仏・午後4時ご回向と支部長挨拶・午後4時半閉会。

ご法話は次のように受け止めました。〈 〉内は著者挿入。

一席目

昨年に続き、山崎弁栄上人の『礼拝儀』の中の「歎徳章」についてお話しします。歎徳章は、〈全仏教経典より大切な経典を選択し、『無量寿経』の要所一部を上人が選んでいます〉「無量寿如来の威神光明最尊第一にして諸仏の光明及ぶこと能わざる所なり」のここの語句だけでこの章の全てを表す程の句です。従来仏教では本願をベースに説きますが、弁栄上人は本門〈仏の本質を説いた部分〉と迹門〈それ以外の部分〉で説きますが、「歎徳章」は本門です。同じ独尊でも諸仏を認めないのがキリスト教やイスラム教です。悪がどうして生まれるかの説明も出来ない。仏教は無明で説く。それから煩悩が生まれ、それを払えば仏性が光輝く。

さて、「一切衆生の中に宇宙は有るか?」との問いに対して、一般の仏教学者は無いと答えます。しかし、弁栄上人の教えでは有ります。弘法大師も如来の体は宇宙と言うから有るのです。如来性(頂点)から法身である世界性〈宇宙〉が生れ、続いて我々衆生性が生産される(三角形の右辺)。生産された我々、衆生性(三角形の底辺部)は、如来の報身に育てられて如来性へ還る(三角形の左辺)。現在の浄土宗は還るのでなく、往くと定義しているけれども。「一切衆生悉有仏性」(大般涅槃経)と言い、「悉皆成仏」とも言い、無機物も含め一切の衆生は悉く仏性、つまり霊性を有している。山本空外上人は前述の三角形の右半分(法身)を内在的世界観とし、左半分(報身)を超越的世界観と説いた。超越と言えば、我々から離れた高い所にある絶対の神のように対立している。超越した如来を歎徳(褒め称え)すると内在が効いて如来が接近して来て自分も高まる。そんな状態を示す前述の三角形の図の左頂点部分は、如来の手前が離れた線の状態に成り、線が繋がらない三角形状態である。如来と離れた状態の中で如来を褒める・讃えることが重要である。『礼拝儀』の御文章は何処までが讃えるのか分からないが、節が付く所は全て讃える所となるのではと思う。歎徳は五種正行(読誦正行、観察正行、礼拝正行、称名正行、讃嘆・供養正行)が入っている。

二席目

無量の本質を理解するのに論理的以外で理解する方法があるでしょうか? それは有り、例えば、原青民師が「外に見えていたものが心の中に見える」ということです。疼(かゆみ)はどうでしょうか?ものを考えるようにして理解しないでしょう。

光明は十界を摂す、つまり、地獄から仏迄の十の世界を照らします。地獄の人も光明に照らされれば仏に成り得ます。縁覚は、声門から仏迄の四聖に属し尊いが、孤独で独生独死独去独来である。菩薩のように共同社会性があることが大事である。

三席目

遇斯光〈斯光に遇う〉については、河波上首が次のように最も多くの言葉で説明されている。一、融入 二、感応道交 三、加持 四、入我我入。この「入」については、五種正行の観察正行があるが情的に仏を観察することで、知的な観念念仏とに差異がある。

「三垢消滅し」の「垢」は地獄・餓鬼・畜生の三悪道。清浄光により消滅する。「身意柔軟」智慧光荷よる。歓喜光により「歓喜踊躍」。不断光により「善心」の「善」。善とは「自浄其意」〈みずからその心を清らかにする〉および「諸悪莫作」「もろもろの悪はなすなかれ」と言われますが、本当はパーリ語では「悪をしません」と言う訳になる。

「三途」は火刀血で三悪道。「寿終」とは、往生で現世の往生も含む。空外上人が自坊の庭に座っている時近所の寺の奥さんが「極楽とはどんな所ですか?」と聞いたら上人は、「ここが極楽」と返答したことも現世往生です。

今はコンピューター時代で人工知能が発展し出した。痛みまで数値の大小で分かったつもりになっている。しかし、それでは将来の子供達が危ない。体験・実感がないから。

「若衆生ありて其光明の威神功徳を聞いて日夜に称説して 至心不断ならば」の「称説」〈褒め称えて称名念仏する〉は浄土宗の五種正行であり、「至心」は浄土宗の三心〈①至誠心、②深心、③回向発願心〉である。〈光明会では①至心に深く信ず、②至心に愛す、③至心に欲望す。〉

「不断」は、四修〈①恭敬修(心底から敬うこと)②無余修(五種正行以外はしないこと)③無間修(時間的に間隙なく念仏すること)④ 長時修(1、長い間継続して念仏すること、2、恭敬修、無余修、無間修を一生中止せずに続けること)〉に当たる。