関東支部 平成31年4月

一行三昧会

鎌尾 光栄

◇日 時:2月3日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:12名

〈ご講話〉十二光仏略解①

 十二光仏の体系的理解
 弁栄聖者の光明主義のキーワードは十二光仏ということであります。
 「如来の光明は遍く十方の世界を照らして念仏の衆生を摂取して捨て給わず」。すべてはここから始まります。十二光仏とは、無量寿如来の光明が「威神光明最尊第一にして諸仏の光明及ぶこと能わざる所なり」とされるところから、この故に無量寿如来を無量光仏以下十二の光明の仏号を以って号し奉まつる、とされているからであります。『無量寿経』の「歎徳章」に説くところです。
 弁栄聖者は『無量寿経』の四十八願の部分は迹門であり、「歎徳章」から本門が始まるとされました。迹門の阿弥陀仏とは法蔵菩薩が長い永い兆載永劫の修行をされて十劫の昔に正覚を得られた如来さまのことです。お釈迦さまもそのお一人です。お釈迦さまには如来としての始めがありますが、本門の阿弥陀仏は無始無終、修行の結果として正覚を得られたお方ではありませんから本有無作、本覚の如来さまです。本門の阿弥陀仏が十劫正覚の阿弥陀仏に垂迹されたのでありますから本迹は不二であります。この本仏としての無量寿如来が十二の光明の仏号をもって衆生済度に手を尽くされているわけです。弁栄聖者は「宇宙の真理は悉く十二光仏によりて尽くせり」と述べられてこの十二光仏を縦横無尽に体系付け、聖者独自の「光明主義」なる宗教哲学体系を提唱されました。
 以下に、無量寿仏と十二光仏の、弁栄聖者の讃頌(「礼拝儀」所収)を筆者なりの説明の便宜の順に掲げ、簡単に説明しておきます。

(1)発心修行
南無不断光仏
常恒不断の光明に 我らが意志は霊化せば
作仏度生の願みもて 聖意現す身とはなる

南無難思光仏
甚深難思の光明を 至心不断に念ずれば
信心喚起の時いたり 心の曄曈とは成りぬべし

南無無称光仏
如来の慈光被むれば 七覚心の華開き
神秘の霊感妙にして 聖き心によみがえる

南無超日月光仏
智悲の日月の照す下 光の中に生活す身は
聖意を己が意とし 三業四威儀に行為なり

 常恒不断に光明を発せられる不断光仏のおはたらきを受けて私どもの意志は仏道を求めて変化(意志霊化)いたします。弁栄聖者の原分類では不断光は次の「恩寵」(「光化の心相」の一つとして)に含まれますが、この不断光が発心修行の引き金になるという意味からここに掲げました。衆生は四弘誓願にある如く作仏度生の菩提心を発し、修行の道に気づき勇往邁進の決意を新たにいたします。ここで「意志」ということが重要です。意志は力の源泉、また行動への原動力であります。一切知と一切能とをもつ如来においても一切能が意志となってあらわれ意志が心の力能となり、宇宙一大心霊の力能が客観として現われて物質を含む宇宙万有の造化となると考えられています。すると難思光仏のお導きで信心喚起のときとなり、五根五力などの準備(心に弥陀の聖容をほのかにでも念い上げられるような状態になること)を経て本格的に修行の決心を固めます(恩寵喚起)。そして無称光仏のお慈光をいただきながら、般舟三昧という大乗仏教の伝統に則って七覚支の階梯を一段一段前進して心の華が開いていきます(恩寵開展)。覚支とは、さとりを得るための手段とかさとりに向かう実践の諸徳目、などと説明されています。般舟三昧とは、諸仏現前三昧ともよばれ、目前に仏のましますことを信じて念仏三昧に入れば仏をまのあたりに見ることができる、といわれ、弁栄聖者のご垂示にも「一念弥陀に在れば一念の仏 念々弥陀に在れば念々の仏、仏を念ずる外に仏に成る道ぞなし、三世諸仏は念弥陀三昧によって正覚を成ずと南無」と明かされている通りです。
 「念仏七覚支」のお頌によりますと択法覚支で阿弥陀仏に一点集中の的を定め(いつも弥陀の慈悲の聖容を忘れないように努力する、「御名を通して念おえよ」)、精進覚支で勇猛に身心弥陀を称念し、次第に心に喜覚支、軽安覚支の手応えを覚えていきます。やがてお慈悲のみ顔をはっきりと観たてまつる定覚支にいたり、心は空となって入我我入の霊感に打ちふるえ聖き心によみがえります。この後の捨覚支と念覚支は、いつも如来と離れることなくその光明の中に安住し、わが心と仏心とが通い合う境地が常となります。
 かくして超日月光仏の光に照らされて、如来の聖意を己が意として、自分のあらゆる時と場合にあって(三業四威儀に)正見、正思惟など八つの徳目をいう八正道を通じて利他の行いに邁進する、通仏教的には無住所涅槃の境地で日々菩薩道を実践することになります(恩寵体現)。

 超日月光仏については通仏教的にはこのように菩薩の考え方と密接に関連するでしょう。しかし光明主義独得の「如来のお世嗣」という考え方に留意しますと独自の考察が必要です。通仏教的な、四諦の道諦としての八正道の理解では充分ではありません。光明主義では仏眼開け、如来からの啓示を受け、さらにその相互関係が一層深まって窮極の立場に至るところ、具体的には念覚支の状態と入の位の啓示という最高最深の境地、そういう境地が如来のお世嗣としての有様なのです。起行の用心で至りつく行者の最終の境地、そこまでに仕上げて下さる光明が超日月光仏にほかなりません。