関東支部 平成30年12月

一行三昧会

鎌尾 光栄

◇日 時:10月7日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:14名

 10月にしては暑いくらいの一日でした。いつものように午前中は礼拝儀をお称えし、午後はご講話を拝聴いたしました。

〈ご講話〉弁栄聖者略伝⑤ 弁栄聖者とキリスト教(2) 

 聖者の光明主義体系において、如来の霊応を安置す、ということはきわめて重要な概念であります。たとえば「無称光」のはたらきとして説明される七覚支の階梯を踏む宗教体験は念仏者と「霊応身」の弥陀との交流にほかなりません。この「霊応身」という考え方は、キリスト教の「聖霊」という考え方ないしその位置づけを連想させるものであります。聖者のみ教えを学んでいきますと霊、霊性、霊体、心霊等々、霊の字に出会うことがしばしばです。
 「如来光明礼拝儀」の中にもいくつかの例があります。さらに食事の前後に唱える「食作法」にも食前食後ともに「霊の糧」があり、食前に「霊の弥増さんことを祈り」、食後に「霊き命の力となして」の句があります。
霊応身と聖霊
 これら霊の用例の中で、光明主義の教学として霊応、霊体、心霊(体)などはとくに重要な術語ないし概念です。一例として「霊応」について考えてみます。
 「霊応」に関して、「霊験」の別称と記すのが仏教辞典の大方の見方であります。しかし、霊応、また霊応身は聖者独自の仏身観―三身、報身、真応身等に連なる一連の教理の一環でもあります。
 注目したいのはキリスト教における「聖霊」の位置づけとの関連であります。キリスト教が「父と子と聖霊」を「三つの位格、一つの実体(神)」とみて三位一体説に立つことはよく知られています。ある神学書には「父はキリストにおいて聖霊を通して啓示されました」という表現があります(マクグラス『神学の喜び』190頁)。因みに弁栄聖者の教学においても「啓示」ということが「智慧光」の説明などで重要な役割を担う用語として使われています。
 そして次に注目されるのは、キリスト教が1054年に、ローマを中心とするカトリック教会とコンスタンティノープル(東ローマ・ビザンティン帝国の首都、現在はトルコのイスタンブール)を中心とするギリシャ正教会に分裂しましたが、その主因が聖霊をめぐる考え方の相違にあったという点です。ローマの西方教会では聖霊は「父と子から出た」(正確には、父が子を生み、父と子が聖霊を発出した)とするのに対し、ギリシャの東方教会は聖霊は「父から出た」(父が子を生み、父が聖霊を発出した)とする考え方を譲らなかったからとされています。結果として東方の考え方では子と聖霊は同じく父(たる神)から出たことになり、子(たるイエス・キリスト)と聖霊がいわば対等とでもいうようなイメージが広がっていくのかもしれません。聖霊において人は神と親密に交わることが可能と考えられるようにもなるのかもしれません。しかし制度としての教会が発達し確立していた西方教会においては「子たるキリスト」とその代理人としての教会の立場からして、教会の外で聖霊を介する神との直接の触れ合いは歓迎されない、ないしは異端的ともみなされる雰囲気が生まれていったのかもしれません。
 一方、東方教会は教会組織がカトリックほど強固ではありませんでしたから、聖霊を通ずる神との交流という信仰が発達する環境があったと言えそうです。こうした歴史的背景をもつロシア正教会(近代ではギリシャ正教の中心的担い手)が明治の早い時代に弁栄上人の故郷に進出しており、聖者が(すくなくともはじめに)出会われたキリスト教が、おそらくは西方教会のそれではなく東方教会のそれであったろうとの想定はかなり示唆的というべく、因縁を感じさせるように思えてなりません。聖者がその後西方教会とも接触をもたれたと考えるのは当然でしょう。聖者の霊応身とキリスト教の聖霊(聖神)との概念的アナロジー、類同性は否定できないように思います。もとより、とは言いましても聖霊は実体の世界のことであり、霊応身は縁起の実践に伴う世界のことであります。この点はキリスト教と仏教の根本性格の相違を表わしています。
 但し大切なことは、一方が他方の影響を受けたというたぐいの話ではなく、聖者のみ教えが単に浄土宗の中だけでなく、かつ仏教の中だけでもなく宇宙の自然界心霊界にわたる聖者の体験事実をそのままにお説きになったものでありますから、「結果として」大乗仏教全体のみならず、世界の諸宗教をも養分として取り込みながら光明主義の体系を建立し説明されたように見えるということでありましょう。水(日)もウォーター(英)もヴァッサー(独)もオー(仏)も、言葉は違いますが実は同じものを指しています。
 聖者がご覧になりお説きになるものは、三世十方の大宗教が見たものと同じ、「the same」なのであります。同種のもの、ではなく、同じもの、なのです。おのずからに光明主義の教えが宗教として世界的の性格を帯びてくるわけであります。
 大霊たる如来をもとめる衝動が霊性である、とする聖者の文章を拝読しましょう。如来と衆生との関わりが述べられますが、如来の智慧の働きという側面からも読み取れるからです。
 「宗教の関係は己のみにて成立するものにあらず。主体と客体の親密に合一する処に成立す。主体は即ち人にて客体は神即ち仏教の如来である。人の信仰と如来の恩寵との関係である。信仰とは己をささげて帰命信頼すること、恩寵とは人の信仰に対して慈愛心を以て愛念養成し給う親子的関係の如くである。
 通じて神と如来は宇宙大霊体の代表的人格現にして即ち大霊である。人は宇宙の一分子にて小霊である。大霊と小霊と合一する処、また小霊が大霊の恩寵によって開発霊化せられて闇と悩みと罪の状態より、明と安と善とに復活せらるるにあり。人が小宇宙とすれば如来は大宇宙大我である。大我より小我に対する力用を恩寵といい、小我が大我の恩寵を仰ぎて同化せらるるが恩寵である。」(『人生の帰趣』) 

念仏と法話の会

志村 念覚

◇日 時:10月21日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇法 題:「心の実相 ―十界互具―」
◇参加者:20名

 秋晴れのそよぐ風は涼しく過ごしやすい一日でした。午前は念仏と礼拝、午後は法話のテーマにちなんだ「一心十界の頌」の聖歌を合唱し法話をいただきました。

はじめに

 十月十日に神田の学士会館で実施された東京国際仏教塾創立三十周年記念の祝賀会において中野東禅先生の特別講演があり、「釈尊の人間関係学」というテーマを『六方礼経』という経典から説いています。この経典は人間が生きていくうえで大切な人間の関係性についての釈尊の教えを六方に配して説くものです。この六方とは方角を拝むのではなく、すべての世界の衆生を意味し、そのすべてに崇敬と感謝の気持を表明することにありました。いわば六方に対する心のありようを説くものです。また、弁栄聖者は釈尊の説く人間の心の実相について、十界互具という十界の一つ一つが互いに他の九界を具え、地獄の衆生も仏となりうるという天台の説を一心に十界を具える「一心十界」としてわかりやすく説かれています。私たちの生活する六方や六道から私たちの心について考えてみたいと思います。

一 釈尊の人間関係学(『六方礼経』の経説)

 『六方礼経』は『仏説尸迦羅越六方礼経』など漢訳四本とパーリ文『シンガーラへの教え』(パーリ仏典経蔵長部の第三一経)があります。今回紹介するのはこの経典を椎尾弁匡博士がパーリ仏典から訳したものです。これをまとめた次に掲げる「六方の経説」は、南方仏教では世俗人のための実生活の指針として重んぜられているもので、現代の実生活にも役立つものといえましょう。

六方の経説

【東方】父母
 (a)子の父母に対するあり方(五処)
 育てられたるによった父母を養い
 為すべきことを為し
 家督を維持し正しく相続し
 父母の死後は施しを為す
 (b)父母は五つの方法で子を可愛がる
 悪を止どめ善に入らしめ
 学芸を学ばしめ適当な妻をめあわせ
 程よいときに家督を相続させる
 
【南方】師(先生)
 (a)弟子の礼
 立って迎え給仕し信順し世話し
 謹んで習得す
 (b)師の任務
 修養を指導し自ら学んだところを与え問われれば正しく説明し
 知友の間に紹介し
 諸方面において保護す
 
【西方】夫婦
 (a)夫の態度
 尊敬し軽んぜぬことと
 不品行のないこと権威を与え
 装身具を与える
 (b)妻の態度
 手順よく家事を為し交際上手で
 不品行ならず財を守り
 仕事に熟達して怠らない
 
【北方】友人
 (a)友に対する五つの態度
 布施愛語利行同事
 偽りを言わない
 (b)友人の為すべきこと
 懶惰を守り懶惰者の財産を守り
 恐れ有れば頼りとなり
 災厄あるときに捨てず
 友の子孫を可愛がる
 
【下方】部下と上司
 (a)上司の心構え(部下の愛しかた五種)
 力量に応じて仕事を配当し
 食事と給料を相応に与え
 病気のときは薬を与え
 珍しきもの有れば分かち与え
 時折は休むことを勧める
 (b)部下の心構え(上司を大切にするこつ)
 朝早く起き夜は定刻に寝
 与えられたるもののみ受取り
 良い仕事をし
 上司の良いところを(よそに)伝える
 
【上方】聖者に会う心構え
 (a)聖者に会う態度
 親切(身)親切な言葉(口)
 親切な考え(意)
 戸口を閉ざすこと無く
 食事を布施す
 (b)聖者の衆生への哀愍の仕方
 悪を止どめ善に入らしめ
 善心を以て哀愍し
 未だ聞かざるところを聞かしめ
 既に聞いたことを明確にさせ
 生天の道を示す

二 『人生の帰趣』における三善道の心

(1)心十界と心具(十界具有・性具十界)
 弁栄聖者は「一心十界」を「一心を本として心の理に十界を具し事に十界を造ると云うのが天台の原則である。」(岩波文庫『人生の帰趣』七六頁)と、天台宗の教学から説明しています。しかもそれが宇宙一切万法の本体である如来蔵の一大心の分心であることを明かしています。この心に十界が具わっていることを心具といい、その中から自身の心に地獄界から仏界までの十界のいずれかの働きの強い方を造ることを心造と述べています。そして、心具とは人々が本来有している心におのおの迷と悟、善と悪とかいわれる各三等に階級が有り、それらを合わせて十法界となる性能が具有しているというのです。 すなわち聖者は、「迷も悟も善も悪も地獄から仏界に至るまで悉く具して居る。己が情に違戻する境に遇えば忽ちに瞋恚の炎が胸中より燃え上る。これ地獄の火の種にあらずや。嫉妬慳貪は餓鬼の心。愚痴賤劣は畜生の心。僑慢勝他は修羅の心。義務と同情とは人間の心。博愛公徳は天上の心。霊妙の感応を信ずるは声聞の種。人生を覚って見たいと云うは縁覚の心。或る場合には他人を救う為には自分の身を忘るる事ある如きは菩薩の心、神尊を尊信する宗教心はこれ仏心である。」(同 七八頁)と述べ、人々が生まれながら具えている性質に「各々三等に分つ。地獄、餓鬼、畜生を三悪道とし、修羅、人間、天上を三善道とす。この六道は善悪苦楽無量に差別すれども六凡法界と云う。悟に三等あり。声聞と縁覚と仏菩薩とにて、大小階級ありといえども四聖法界と云う。合して十法界とす。」(同 九〇頁)と十界それぞれの内容と階級を説明しています。このように一つの心が迷(六凡法界)と悟(四聖法界)の二つと分れることについて、「心は同一なれども凡夫は無明に眠って六道生死苦楽の相を夢み、聖人は無明の睡より覚めて大覚の明境を知見す。仏陀釈迦出興し給う所以は、一切の衆生を無明の眠より醒して永遠の光明に入らしむるにあり。」(同 九一頁)と迷から悟に導くことが仏教の目的であることを述べています。
(2)三善道とその超克
 仏道は迷の六凡法界の三悪道よりも三善道に、そして悟の四聖法界へと仏を目指すものですが、悟に至るための三善道の階梯とその超克を弁栄聖者は次のように説いています。

① 修羅道
修羅は常に闘争を好み、非常に怖ろしいものです。五常(儒教の仁、義、礼、智、信の基本的徳目)を行ずといえども勝他を欲する故に下品の十善(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見)を作してこの下品の三善道となって表われるというのです。三徳のうち勇のみ重く智仁の欠乏する人格は修羅格といい、楚の項羽、平将門、ナポレオンなどはこれに属するとしています。
② 人道
人間とは全く人格具備した者を指します。たとえ形は人類であっても人格を具備しない者に人の真価はありません。人間は本能的動物ではないのです。育成訓練を要する生物です。文明の教育の目的の主とするところは人に人格を具備させることにあります。また国民教育の主とするところは人道の基礎として人格を養成することにあります。教科書に載る古来道徳上立派な人物は人倫の見本としてあげたものです。中国の孔子、ギリシャのソクラテスなどは人道的意味の聖人です。日本の教育において中江藤樹、伊藤仁斎、貝原益軒、二宮尊徳等の教訓を標榜するのは人道的意味の指導者であるからです。人生を永遠の光明界に導き霊格を具備させるためではありません。人道としては今日の日本の教育で行われていますが、人生最終の帰趣を目的とする霊性を開発する教育ではないのです。
③ 天道
仏教に明かす天上界に六欲天、色界十八梵天、無色界の四無色天などがあります。六欲天とは世の公明正大博愛無私の有徳君子の帰趣するところで善美を尽くしたところです。物質的な最高等の快楽を感ずるところで、色界は四禅にて世間的な公徳私徳の上に最も完全なばかりでなく、冥想観念をもって心霊を修練し思想を精練するところです。(同 九三―九六頁)

三 おわりに

 釈尊の人間関係学は、六方の生きとし生ける者への崇敬と感謝、すなわち衆生恩に対する感恩と知恩をもって人道の鑑とすべきことを示したものです。
 弁栄聖者は天台教義にいう十界互具をもって人間の内面世界の実相を説明しています。しかもそれが宇宙一切万法の本体である如来蔵の一大心の分心であることを明かします。また三善道の心の世界は、釈尊の人間関係学に説く世俗人の心の解明ともいえましょう。人生を永遠の光明界に導き霊格を具備させるには霊性を開発することが必要と、聖者はこれに鋭い批判と分析を加えているのです。