関東支部 平成30年9月

一行三昧会

鎌尾光栄

◇日 時:7月1日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:14名

〈ご講話〉弁栄聖者略伝③ 弁栄聖者

(2)光明主義の発足と顕揚・入滅 
 前回、聖者が明治33年に三河にて肺炎にかかられ法城寺にてご静養、ご回復直後、五香善光寺において寒中に棺桶の中で30日にわたる行の後、弁栄聖者の信仰と教学が完成し、十二光が体系化されたことに触れました。棺桶別行について田中木叉上人はつぎのように綴っています。
 「外から見たところは小さな窮屈な箱のなかで、寒に慄えているように見えたかも知れぬが、寒熱などは感じもない念仏三昧の心の空が霽れてくれば、一本の生糸を千筋にさいて、その目にもとまらぬ細い軟らかい快さでふわりと包まれたような、内から発する体感も通り過ぎ、身体のあることさえ感ぜず、このうっとりとなるような大喜妙悦の内感も安祥として通りこし、うつし世にはなき妙音妙香の心を楽ましむる勝境も通りこして、例えようのない快ささえ今は覚えなき心の空は、万里雲なき万里の天に、満天これ月の光明界となることもあり、あるいは尽十方は無礙光如来の光明織りなす微妙荘厳現前することもあり、あるいは無相、あるいは有相、自受用法楽の言語に絶し思慮の及ばぬ勝境現前、彼此の対立全くなき神人融合のなかに、如来の徳と智を啓き与えられて、時空を超絶してすごされた三十日別時三昧に、心光いかばかりかその輝きを増されたことであったろう。」(『日本の光』二一六頁)
 数ヶ月にわたる病気療養、棺桶別行は、聖者のそれまでの『阿弥陀経』を和訳されご自分で絵をお書きになって施本されていた『訓読阿弥陀経図絵』による布教活動から『無量寿経』の「如来光明歎德章」の新解釈へと新しい法門の転換がなされた大きな契機となったようです。明治35年前後、聖者が40代半ばの頃です。聖者の「礼拝儀」は『無量寿尊光明歎徳文及要解』をはじめとして段階的に発展され、現在使われている『如来光明礼拝儀』は9回改定されたものです。
 明治43年に栃木県在住渡辺千代子女史宛に書簡を送っています。『無量寿経』の歎徳章に注目され十二光について説き明かされてから10年近く後のことです。その書簡には光明主義成立の核心ともいえる重要なことが語られています。法然上人も称名に万徳があることをいっていますが、無量光寿を解釈し浄土教哲学を組み立てたのは聖者をもって嚆矢とするでしょう。
 「…その後少し健康を害して、関西に二年ほど出張を止めて、東国にて伝道に従事したりし三十四年~五年、大いに感ずるところありて、伝道の余暇、浄土教の哲学的方面に研究することにつとめて、大いに得るところあり。関西の仏教盛んなる土地において僧侶衆の請いによりて、自己研究の浄土教哲学を講習せること十数か所にて開きたりき。
 これを仰げばいよいよ高く、これを鑚ればいよいよかたく、実に広大甚深不可思議にして不可思議なるものは弥陀の光明なり。
 古人曰く、弥陀は名を以って衆生を度す。元祖大師(法然上人)は…一切仏教中よりえらみ択んで弥陀の名号を抽きて所帰を定む。…名はすなわち体を徴す。あみだの名の中に如来の三身・四智ないし一切万徳ことごとく具備して余りなしと。…あみだの聖名を開きたる弥陀の十二光聖名、いずくんぞただ誇大的に無量無辺の霊名を列ねたるものならんやと。…
 実に如来の境界は凡夫心力の及ぶところにあらず。この神秘不測の妙境を窺わんと欲せば…(これを)開くの妙鍵は、すなわち十二光名によりてその体を発悟するにあると。古来、千聖(多くの聖者たち)出でて名を以て獲得すべき経路を示したまえども、いまだこれを開きて十二光名を以て諦かに如来の体(本体)・相(すがた)・用(はたらき)を窺うべきの真理をのこしたまいしは深意あり。後昆(子孫)をしてこの霊名によりて広く深く細に微に如来の聖徳を獲得せよとの聖意ならむ。…ここにおいて如来、ひそかにこの愚昧なる小弟子(弁栄聖者)をえらみて、これを開くべきの宝鑰(宝の鍵)を授したまえるなり。故に選ばれたる小弟子、みずから不敏を顧みず、十二光によりて如来の霊徳を密かに開くの命を奉ず。みずから感謝措くこと知らざるなり。
 渡辺女史よ、宇宙の真理は悉く十二光によりて尽くせり。よって光明三昧を以て主義とし奉るなり。世の闇と罪と悩みとにまどいつつあるものにこの光明を与えむと欲してやまざるなり。三世諸仏はこの光明によりて成仏したまえり。一切の諸賢はこの霊徳によりて得度したまえり。
 その後、寐てもさめても光明三昧にて候。この光明を惣表するものはなむあみだ仏にて候。」(山本空外編『弁栄上人書簡集』二六四頁~。『お慈悲のたより』上巻三七二頁~にも同旨の文あり。)
 やがて明治45年、54歳ころより従来の新しい主張をもっぱら「光明主義」の名をもって説かれました。筑波山で仏眼を開かれた24歳のときから実に30年をかけてご自分の信仰体系を顕かにされたのです。それ以後も全生涯を通じて光明主義を弘伝されましたが、ついに大正九年十一月中旬、越後柏崎極楽寺巡教中ご発病、十二月四日朝、霊応いつも新たに常住に輝く涅槃にお入りになりました。

念仏と法話の会

志村 念覚

◇日 時:7月15日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:20名

 西日本を中心に被害をもたらした豪雨のあと猛暑が続くなか、午前中は念仏に精進いたしました。午後の法話は五月の法話の『人生の帰趣』を読む「光明主義の生命論」を引き続きテーマにご法話をいただきました。

〈御法話〉『人生の帰趣』を読む

光明主義の生命論 二
前回の要点 弁栄聖者は、人が宗教的に生きるとは「主体と客体の親密に合一する処に成立す。」といい、主体は人であり、客体は神や如来であるという。人の信仰と如来の恩寵との関係こそが宗教的に生きるということである。人生の根本生命の本源について、生の内面生活の心識の方から説いているのが仏教であると説く。
一 如来蔵と帰趣 (岩波文庫本 四一頁~四三頁)
 大乗仏教によれば、我々衆生の心体は生滅と不生滅との和合である如来蔵性という宇宙全一の心霊体ともいうべきものである。 それが無明の悪習により、識の根底は絶対無限であるが、表面は個体となって、個体の方より見れば生滅流転し、その根底は如来蔵として不生不滅の体となる。このことを聖者は、大海の水と浪(波)にたとえる。『大乗起信論』に自性清浄心が無明の風によって動じて染心となるように、その意はもと宇宙全一の大心態が動いて、小我分裂の識となるので、大海水はもとは一体であるが波浪を起して個々が現われるというのである。
 これが、絶対不変である真如が縁に応じて万法を作り種々の現れ方をするという随縁真如である。万法となった方から見れば、種々に転変するけれども、本態からは常一である。これによって見れば、人生という一切衆生の浪は、一大真如の大海にたつ浪というのである。『宝性論』に無始世より本性ありて諸法の依止となる。性に依って諸道及涅槃の果を証するとあり。この意は宇宙には無始より一大心性があって、それが一切万有の本体となっているので六道の衆生となるのも、また諸仏の常住涅槃を証するのも、もとは同一の心性であるということである。
 我々の人生の心源は一大心霊がもととなっているが、あらゆる世界に現われた万物と離れぬ関係をもっていて、宇宙間に現われるすべてのものである万有の本体は同一の大霊なので、現出した状態ではすべて無尽の性と相とに分れながらも万物が相互に関係をもっている。万有が相互に非常に複雑な関係をもって互いに作用し合っているというのである。もともと我々は大法身から生じたものであるから、またもとの一大法身に還るべき性を具している。この本源に還る法がすなわち仏法であるという。仏陀生涯にわたっての教えはこのことなのである。
二 生命の二面 (同 四三頁~四四頁)
 人生のそれぞれ主体である人間の心(広くいえば一切生物の心)は、生命の体である。その衆生の心に仏教では二面あると説く。 すなわち心の生滅と不生滅との二面が離れぬ関係をもっているというのである。『大乗起信論』には心の生滅する方と不生滅の方との和合する我々の心を阿梨耶識と名づける。一体でも生滅の方を阿頼耶識といい、不生滅の方を如来蔵と名づける。
 けれども生滅の方を自分だとして、その根底にある永恒不滅の自己の本体を自覚しないのが凡夫である。仏教は自己の精神生命の本源である永恒不滅の心性を発見してその永遠の生命と合一するのが目的である。
 生滅はまた二面に分けることができる。ひとつは有機生命であり、ひとつは識心である。人を形の方から見て生理的生命の体である自己とし、もう一方は心識という霊魂や業識を自己とする。
 人間は一切の生物と共に生滅するが、生滅に一期の生滅と念々生滅とがある。一期とは人が生れて一生涯に亘って一定の時間中に生活活動しこの生活の働きある間を生といい、終りにその働きが終止するのを滅という。念々生滅とはこの身体も精神も共に細胞組織の働きが新陳代謝して止む事なく新しく生まれ変わり生滅している。精神生命においても念々生滅と同じようなものである。心というものは何時でも常住なものではない。仏教に人間一日一夜の中に八億四千の念があり、その念々の心の働きの善と悪の業作が三悪道と三善道を造作しているというのである。
三 生命は一体 (同 四六頁~四九頁)
 地上に発生した生物生命において、一切生物界を通じて同一の起源より出でたということは矛盾しない。我々の生命は世界的生命の一部であり、人類の祖先より遡って生物原始の生命にまでつながっている。原始の生物は極めて単純な細胞に生命があって、それを保護する外包という細胞がある。しかし外包が生命を保護し生命活動を行うためには必要であるが、生命は原形質に在って、これを子々孫々に連綿して嗣がれていく死なぬ部分がある。生殖細胞である。父母の細胞が合体して新生命を宿して根本細胞となる。それが動物や人間生命の根本である。人の生殖細胞に宿れる生命が横には広く枝から小枝をなしてひろがり、縦には千万代に嗣続しているのである。
 科学的に生命を説明することができると思われているが、生命を生物学的に、化学的にのみよって説明し尽すことはできない。炭酸水窒の元素を調合し電熱等を加えても生命の原形質を造ることは不可能である。生命は物質化合の結果として生ずるものではない。物質方面のみの学者は生命の主体が何であるかを考えていない。人は幼より老に至るまで統一の主体がある。生命の実質には自発的活動と統一の主体と有目的性とがあって、ただ物質の精妙な結合物というのではない。生命の主体である自己はただ化合物ではない。本体は宇宙の真霊そのものである。我々の生命は根底において連絡を断つことは出来ない。生命は実に不思議中の不思議なるもの、宇宙全体の絶対的生命というものから、我々個々は同一の本体より分受したものと認めざるを得ない。一切の個々は、互に連絡して断つことの出来ない関係を有しているのである。
四 業識(生命の力) (同 五〇頁)
 大霊の分子である心性を伏蔵する極小の心生命を無明といい、また業識または阿頼耶識ともいう。この阿頼耶識を伏蔵する有機生命は原形質に存在する。これが極小生命の体である。無明業識という活ける気を衝気という。この衝気業識が生命の主体であり、自発的に活動して生きようと欲する生命の力なのである。
五 心霊不滅 (同 五三頁~五七頁)
 私たちの自我である霊魂は大宇宙の一分子である。自分の生命が全体の宇宙がなくては生存出来ないということは疑いないことである。産出された私たち分子に心霊があり生命があるとすれば、その産出する大ミオヤに大霊があり大生命がなくてはならない。宇宙を絶対の大霊大生命であるということを明らかにすると、仏教はその真理を教えるものであり、これを法身ビルシャナ仏というのである。大いなる宇宙は大いなる如来であり、産出する大ミオヤの如来心と産出される分子の衆生心との区別と連絡とを図に示せば次のとおりとなる。

衆生心―相対的―生滅―有限―小我
如来心―絶対的―不生滅―無限―大我

 衆生として生れた者は必ず死す。このように生滅変化することはすべての人が実際に体験することである。宇宙全体としては絶対なるものは無始無終であって過去も未来も限りのない存在である。絶対なるものは不生不滅の存在ともいえる。
 絶対の大霊と分子の小霊(人の心)とは、水と浪(波)とのたとえのように、水は浪ではないが浪は水を離れては存在しない。このように外見からは衆生は生滅の生物であるが、不滅の大霊を離れて存在することは出来ない。生滅の衆生心と不生不滅の大霊とはその裏面において離れることが出来ない関係を有しているのである。このことはカントもいっているように、我々の僅か八十年の生命は永恒不滅の大生命の一分現象であるというのである。我々の心も仏教では如来蔵性といい、絶対無限の大霊を根底として、私たちの相対有限の心が存在するというのである。このことから衆生心には生滅不生滅の二つの側面が有るといえる。一面より見れば生滅であるが、その裏面の一方には不滅の大霊と連絡している。霊魂ということばは霊は不滅を意味し魂は生滅の方を意味しているのである。ただ生滅の一方のみを見れば人は死ねば滅したということがいえるけれども、その根底の一面には不滅の根がある。野の芝草が冬に表面は枯れて滅しているようであるけれども地中におさまってる根は生命をもっている。
 さて理窟は置いて現実の場に証明するところに真理の説明が立つのである。要するに、生滅の小我と不滅の大我と精神的に合一することである。これについて二つの道がある。一つは能動的、他は所動的である。能動的とは自心の最大根底なる如来心を自ら開発して自己を空間的にも時間的にもどこまでも膨脹して絶対無限に至る自己心中の宇宙となすのである。所動的とは本来絶対の大霊は永恒本然、自己はその分子であれば大霊を離れて我はない。我は大我の分子であれば我を大霊に投帰没入してたちまちに復活して大霊を本体となす我となる時に不滅の霊となる。能動と所動とは入門を異にするが帰するところの大我と小我が合一するということは一致するのである。
 宇宙大霊の分子である衆生心にもともと具わる迷悟善悪十界の性能がつぶさに具わっている。すなわち衆生心に生滅する方と不生滅の両面が存在する。しかし、不生滅の仏慧の性をもともと具わっていながら自覚しないことから生死に流転するものを迷いの凡夫といい、これを六道という。彼等は不生滅の性をもっていても開示し悟入しないことから、ただ生滅の方にのみ迷い惑いて業を造り業の勢力によって生をうける。迷の中においても自ら因縁にしたがい善と悪との業に軽重あって三悪三善道と分れるのである。生はまた業を造り、死はまた生を招き、輪廻は止むことがない。これを生滅に迷う衆生という。
 もし人の心性を二つに断ち切るならば、滅と不滅との二性となる。肉我を主として煩悩による生命は必ず滅におちる。霊性にしたがって生活する者は永遠不滅に向う。前者は迷者暗黒の生活、後者は悟者光明の生活である。前者のみ発展せるものには人は死すれば滅する者という。永遠の生命がいまだここにないからである。霊性が現れれば自己の霊が永遠不滅であることを自ら信じ認めることになる。昨日まで自己の不滅を信じなかった者も、もし一度大霊の光明に接したならば霊性が現れ、たちまちに永遠不滅の真理を信じて疑わないことに至るであろう。

六 おわりに
 衆生心は相対的な生滅する有限の存在として小我であり、如来心は絶対的な不生滅の無限の存在として大我である。我々衆生の小我と如来の大我との合一を目指して、如来の光明により霊性を育む光明の生活を志向するのが光明主義なのである。