関東支部 平成30年4月

一行三昧会

鎌尾光栄

◇日 時:2月4日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:12名

〈ご講話〉起行の用心 その17 阿弥陀極楽去此不遠

1 十万億刹と去此不遠
 前回も紹介しましたが弁栄聖者のお念仏は「即今当念弥陀合一」に集約される円具教です。阿弥陀様は十万億刹の彼方にいらっしゃるのではなく、去此不遠、今ここにいらっしゃるのです。その阿弥陀仏の所在に関して無量寿経、阿弥陀経では十万億刹の彼方とし、一種の他界信仰を反映した方便説のようにもとれます。一方、観無量寿経では去此不遠として浄土三部経の中でも違いがあります。実には観無量寿経の娑婆と浄土の相即説(去此不遠説)が諸経諸文の説示ならびに三昧発得体験者の実感(見仏)に相応していると考えられます。
 善導大師は去此不遠の解釈例として観経疏序分義の中で三つ挙げ三番目に、「イダイケ及び未来等有縁の衆生が心を注いで観念すれば定境相応し、行人は自然に常に見ることを明かす。」と述べています。いわゆる見仏の故に、ということに当るでしょう。善導の弟子である懐感は、お経の間の矛盾について『群疑論』で諸師の論を紹介して三昧定中では去此不遠であると述べています。
2 心眼の世界・心霊界の存在
 心眼で見るべき世界があるのかどうかについては、仏教にはその存在を示唆する経文は華厳経、法華経、維摩経、無量寿経、観無量寿経、往生論など少なくありません。聖者の教えは自内証によるものですが、このような経論にも一致しています。
 自然界の常識では、ものとものとは同一時に同一場所を占めることはできません。物体は特定の場所を占めて他のものを入れず、その意味で他のものをさまたげます。これを「質礙」といいます。これが常識ですから事事無礙とか重重無尽とかが容易に理解できません。
 人間が人間として阿頼耶識がつくり出す肉眼でみる限りは「質礙」の自然界しか見えませんが、五眼まどかに開かれた釈尊の目には自然界の上に重なって涅槃界が存在することを如実にご覧になっていました。あたかも真如と現象が不可分に相即しているように、釈尊にとっては事事無礙、重重無尽の世界にほかならなかったのでしょう。
 聖者の心眼界に関する主なご文章例を二つ見てみましょう。
 「如来他受用の妙用にて…すでに救われてからは身はまだ娑婆にあるもこころは浄土にすみあそぶ。肉眼では昨日に替わらぬ憂き世の中も、心眼を以って見るときはここも即安楽の都、蓮華蔵の世界」(『無礙光』)。これこそ有余涅槃、更には無住処涅槃の状況描写であり、重重無尽の世界の広がりです。
 「世人浄土の存在を疑う者概して言えらく、この自然界の虚空中にこのごとき広大なる星座の存在を認めることはできぬ故に浄土の存在を疑う。ただし今仏教の説くところの仏土は肉眼で天体において発見すべき所在にあらずして、法眼開きて絶対の心霊界において観見すべきものである。凡夫は阿頼耶の業識を以って自分に相応して宇宙を経験しておる」(『人生の帰趣』弥陀教義章)。
3 結び
 聖者から田中木叉上人への「年頭法語」に「念々弥陀の恩寵に育まれ、声々大悲の霊養を被る。十万億土遥かなりと愁ふることなかれ、法眼開く処に弥陀現前す」とあります。法眼が開ければ極楽はここにあります。生きている時からお救いがあるのが、円具教である光明主義なのです。

念仏と法話の会

志村 念覚

(三)身業の念仏(弁栄聖者の教え)
 聖者は三業の念仏における身業の念仏の大切さに ついて次のように説いている。

 もし心がすでに弥陀に同化した上は、たとい口に称名せずとも、その一切の作為ことごとく念仏ならざるなし。事業即ち弥陀の聖意が業に現われたることなれば、還って立派な仏行であり候。念仏といわば口に称うるばかりにあらず、如法(念仏)の心よりなす業は、仏を身の業に現わすことなれば、それは口以上の念仏にて候。一体従来の念仏者はただ口ばかりをおもくみて、身に仏行をなすをあえてせざるは発展の度低きなり。(『日本の光』三一二頁)
日々の作業ことごとく仏行としておつとめの程を(同、三二七頁)

 聖者は念仏が日々のすべての行い(身業)に現われてこそ菩薩行といえるのだと、我々に仏道実践の御教えをお説きになられているのである。また、三業念仏は身業にあらわれてこそ実証できるものといえよう。共生会を主宰した椎尾弁匡師は行動的な念仏、社会的に広がる念仏によりこの世に共生浄土の実現を目指す運動を展開した。弁栄聖者滅後に発足した共生会の結集に田中木叉上人も参加しており、椎尾師の説く業務念仏を身業の念仏と捉えていたようにも窺えよう。

(四)「心田田植歌」田中木叉上人のお歌より
 木叉上人の「心田田植歌」には身業の念仏についての歌が光明聖歌として私たちに説き示されている。以下にこれらの歌を抜粋して記したが、この中の「つらくもつらい時こそはお役に立っている証拠」という励ましのことばは、ぎりぎりのところからでることばであり、私たちに大きな励みを与えてくれる。

又となき日の今日の日ぞ わが永遠のわかれみち
歓喜みなぎる身をさゝげ いざやつとめんこのひと日
 飛びこむ力
ばかも一心信願で 無能の全力つくす時
かげに大悲の力ぞえ できないまゝにできてゆく
 絃を離れし矢
みむねよわれにあらわれよ みくによここにきたれかし
つるをはなれし矢ぞ我は 飛ばずば落ちんまつすぐに
 まっしぐら
やむにやまれぬ大願の 道は一とすじまつしぐら
つらくもつらい時こそは お役にたつている証拠 
 ほがらか
拝みはたらく身はかるく 家ぢゆうかおる福寿草
合わす掌に気も折れ合いて 昨日の悪み今日の笑
大慈大悲にうながされ 歓喜勇躍の働きに
心はづめば身もはづむ 六字音頭のほがらかさ

「能率あげましよう」
蝶々が楽しく舞うように からだもヒラヒラ気も軽く
六字のおんどもほがらかに さつさあげましよう能率を
イキイキしごとが正確に イソイソしごとが迅速に
ハレバレいつでもおちついて ニコニコいつでも気持よく
笑顔に舞いこむ福の神 努力に入りくる宝船
サツササツサとしあげゆく しごとに開ける人の運
みさかえあらわすこのしごと 尊い時間ぢや精出そう
おおせのつとめのこのしごと さつさあげましよう能率を
 (藤堂俊章編『田中木叉上人遺文集』Ⅰ 歌と教え)以上