関東地区 教学研修会

講師&講題
加藤智神父 「大いなる沈黙- 観照・三昧的生活」
西野翠先生 「維摩の沈黙」
佐々木有一先生 「トップダウンの四大智慧」
大南龍昇園主 「弁栄聖者の維摩経観」
会所
東京都練馬区 光明園
日時
平成29年10月14~16日

 6月中旬に西連寺様(山口県)において実施された一般財団法人光明会主催の教学研修会の関東版として、光明園(東京都)において教学研修会が開催され、延べ60名が参加されました。
 開会式では、金田隆栄理事長(全日参加)から、「今後も東西のこの教学研修会を如来光明主義の強化伝道に当たる布教師養成の場として育てていきたい」との抱負が述べられました。また、伊藤支部長からは、「いままでの関東支部主催の研修会と同様に、大変幅広い分野から多くの人に関わっていただいた伝統を大切にし、今回も4名の講師にお願いした」旨のお話がありました。最後に大南園主より、今回の総合テーマとその内容について、「「沈黙と智慧」は作家遠藤周作の名作『沈黙』に端を発し、キリスト教の行を通しての沈黙の世界から大乗仏教の『維摩経』の入不二と沈黙の世界、さらに光明主義のダイナミックな四大智慧の世界に展開していきます。また弁栄聖者の維摩経観では「心浄きが故に仏土浄し」の経句を穢土が浄土に転換する5つの過程としての五眼説で読み解きます」との説明がありました。
 早朝5時30分から夜の8時30分まで、お念仏、礼拝、講義、質疑応答、懇談会等々、多彩なスケジュールでしたが、4人の講師のダイナミックなお話と、さらに活発な質疑応答があり、2泊3日のお別時型教学研修会は終了しました。開催時期などでは課題を残すことになりましたが、来年度はさらに充実した研修会が期待されます。

「大いなる沈黙―観照・三昧的生活」―「沈黙」:神の「行」(ケノーシス)・人の「行」―

カトリック川越教会司祭 加藤智神父
報告者 志村念覚

一 はじめに
 日本のカトリック教会は、主にイエスズ会、フランシスコ会、ドミニコ会の三つの東方宣教に力を入れた修道会が占めている。しかし、ヨーロッパのカトリックの本体というべきはベネディクト修道会である。私は日本においてはあまり知られていないベネディクト会の霊性において英国で養成されたこの国で唯一の司祭であるが、ベネディクト会は、ミサの相続における「沈黙の生活(行)」(Vita Contemplativa)の霊性に立つ。この観照・三昧的生活といえる沈黙の生活(行)はカトリックと大乗仏教を結ぶものといえよう。
二 神の「沈黙」
 カトリックの霊性はミサにおける「沈黙の生活(行)」の体験の内に神を見出していくものである。遠藤周作は小説『沈黙』の中で、神の「沈黙」について「神は、沈黙の内に、私たちと苦しみを共にしておられた」と見出していく。しかしそこに描かれるロドリゴ神父等の司祭は多弁である。正邪や正統異端を論証し排除することは本来のカトリックとは真逆であり、人の苦しみを救うことこそカトリックの本質である。この多弁さは宣教を任務とした宣教修道会の宣教師を描いていることによると思うが、遠藤はこの沈黙と多弁の違和感を、日本のキリスト教の違和感として無意識のうちに描いているのではないだろうか。
三 私たちにとって「沈黙」とは
 ミサの相続における沈黙の生活(行)の体験の内に神を見出していくことがカトリックの本来の姿である。私たちにとって「沈黙」とは、この「沈黙の生活(行)」から神体験という三昧の体験をロゴス(言語)化していくことであり、ミサで体験されるキリストと私たちの死と復活の「過ぎ越しの秘儀(往生)」をロゴス化していくことである。日本のカトリック教会に決定的に不足しているのが、この沈黙の体験のロゴス化なのである。
四 カトリックと大乗仏教の「沈黙」
 カトリックと大乗仏教における「沈黙」の生活(「行」、即ち観照的・三昧的生活)というVita Contemplativaの伝統について、その起源と普遍的展開についてみていきたい。

(1)その起源と諸行・雑行の時代
 ギリシャ及びインドの哲人方におけるVita Contemplativa、即ち沈黙の生活(行)をみても、その背景にギリシャとインドの文化的交流・相互間の影響が見て取れる。従って、アレキサンドリアの哲学者プロティノスの新プラトン主義についても、ガンダーラの世親はその影響を受けていよう。ガンダーラは、公用語のひとつがギリシャ語であり、ギリシャ・インド両文化交流の拠点であった。プロティノスはソクラテス、プラトン、アリストテレスの後、(新)プラトン主義を創始、アウグスティヌスがその後継者となる。このアウグスティヌスが「沈黙の生活」においてミサを「一行(正行)」と定めるまで、プラトン主義内には定まった行というものがなく諸行・雑行の時代といえる。
(2)普遍的伝統(正業・一行)の確立とその実践
 アウグスティヌスによりミサがカトリックの「一行」として定立され、ミサがカトリックのVita Contemplativa沈黙の生活(行)として自覚的に実践される。大乗仏教においても世親の『往生論』「五念門」により念仏の行が明らかにされ、大乗仏教のVita Contemplativaとして実践される。カトリックと大乗仏教の双方において、各々ミサと念仏という普遍的「行」が、正行であり一行として確立され実践されていくのである。
五 沈黙の生活(観照的生活)の意義
 沈黙の生活・観照的生活はカトリックや大乗仏教においてどういう意義を持つのであろうか。
「沈黙」は生活・生き方(Vita)であり、神・仏に集中していく(「行」Contemplativa)である。大切なのは教義や理屈でも、自分が神・仏を定義することでもない。神・仏の御前に鎮まり、神・仏と繋がりを持てるか否かである。「沈黙」は、神・仏の方から与えられることば(ロゴス)、即ち神・仏の「行」を受けることであり、我が身に神・仏の愛(慈悲)と智慧を頂くための「行」なのである。
このことにこそ、「ことば(ロゴス)」の宗教としてのカトリック及び大乗仏教における「沈黙」の生活(観照的生活・行)の意義があろう。
日本のカトリックはこの沈黙の生活における「ミサ一行」の体験を美しい日本語として表すことができていない。このロゴス(ことば)化こそが日本のカトリックの喫緊の課題と感じている。
六 「ロゴス(ことば)」について
 ロゴス(ことば)とは何か、更に、ロゴス(ことば・キリスト・ダルマ(法))の受肉(人格化・托身・応化身)とは如何なることであろうか。
ロゴス(ことば)とは理屈ではなく、沈黙の内に神・仏から頂いた聖なる体験を自分の内に留めさせて頂くものである。ロゴスは自分を空にして神から頂く神の「行」を受留め、語るよりも聴く一点に集中していく、所謂言葉を超えた体験の世界である。キリストはことばの受肉であり、その成就の姿は神自身が自分を裂いて人に与え、自分を無にして人となり人を生かすこと。これは神の生活・生き方の相、即ち神の「行」なのである。また仏のダルマの応化身も同様であろう。
従って、ロゴス(ことば)と沈黙について、ロゴス(ことば)は神の自己無化(ケノーシス)という神の「行」であり、神の「沈黙」のことなのである。
七 沈黙の「行」とは何か
私たちにとって沈黙の「行」とは、
①神の御前で沈黙(神の御前に鎮まる)し、
②神のことばに聴き、
③沈黙の生活(Vita Contemplativa)を通じて神の「行」を身に頂くための「行」といえよう。
これに対応して、神の沈黙(Vita Contemplativa Deo)は、神の「行」、即ち神のケノーシスという自己無化の「行」であり、「空」なのである。
八 結びに
 日本のカトリックのミサ一行の「沈黙」の生活における神との出会いの体験のロゴス(ことば)化の必要性について先に述べたが、弁栄聖者は念仏一行三昧の三昧発得(依正二報の荘厳の現前)の体験を見事にロゴス化している。聖者は、日本のカトリックのミサ一行の沈黙の生活(Vita Contemplativa)に生きる私たちの、正に師表である。

「維摩の沈黙」

大正大学総合仏教研究所研究員 西野翠先生
報告者 鎌尾光栄

数えきれないご縁の結び目として
 故郷、函館にはたくさんの教会があり中学生の頃からカトリック教会に通っていました。高校時代はちょうど第二バチカン公会議の最中でした。学生会の黙想会(上磯トラピスト修道院)などにも熱心に参加していました。社会に出てから、職場で出会ったスコットランド出身の友人の影響で仏教に興味をもつようになり、在家仏教の講演会などで中村元、平川彰、玉城康四郎、坂東性純といった先生方とのご縁を頂きました。私が初めて山崎弁栄上人の存在を知ったのも、玉城先生の坐禅会の席でした。それはもう今から三十年ほど前のことになります。
戦後まもなくの生まれで戦争の話を聞くことが多かった私は、あらゆる対立を超える仏教の思想に強く惹かれ、大正大学に編入学して、仏教を本格的に学ぶようになりました。入学したその年に大正大学チームによる『維摩経』のサンスクリット・テキスト発見のニュースがメディアで発表されました。そうして『維摩経』の梵文テキストの存在が公然の事実となったことにより、私は『維摩経』の梵文テキストを卒業論文で取り上げることができたのです。
カトリックの司祭であったラモット博士の研究書を頼りに、梵文『維摩経』の和訳出版も手伝わせて頂きました。そして今回また不思議なご縁で恩師・大南龍昇先生からこの講演のお話を頂きました。
『維摩経』について
 成立年代は西暦一~二世紀で最初期の大乗経典の一つです。主人公の居士維摩は巧みな手立て(善巧方便)を駆使し、衆生救済に休みなく働く大乗菩薩の理想として描かれています。
経題はvi(離れる)-mala(汚れ)-kirti(名声)-nirdesa(教え)です。vimalaには「清浄にするはたらき」が含意されており、「維摩」という名前自体に動的な意味が示されています。山口益先生は「世間を清浄化し、済度する」ということで「仏道を成ずる」という意味に理解しておられます。
また「不可思議な解脱の法門」という副題が付いていますが、「不可思議」とは善巧方便を以て衆生を救済しようとする慈悲そのものといってよいでしょう。
入不二法門と維摩の沈黙
 維摩が菩薩たちに「不二の法門に入るとはどういうことか」と問い、三十一人の菩薩が一人ずつそれぞれ対立する二項目を挙げ、その二が実は不二であると自分の考えを披露します。その後、文殊菩薩が「一切諸法は語られず、説かれず、論じられず、述べられず、明記されず、言葉で表示されない、それが不二に入ることです」と説きます。そして、「あなたもまた語ってください」と維摩の発言を促します。
ところが、「そのとき、リッチャヴィのヴィマラキールティは沈黙していた」のです。この場面は古来、「維摩の一黙、響き雷の如し」として、『維摩経』中の圧巻とも山場ともされてきました。しかし、この「維摩の沈黙」を「言説」に対する「沈黙」と捉えたら、諸菩薩と同じく「言説 vs. 沈黙」という二を立てることになってしまいます。
維摩は言葉で言えないから沈黙したわけではなく、言語・文字に問題があるのではありません。他所での維摩の発言によると、論じることそれ自体が問題で、議論は戯論に他ならず、「法とは無益な議論のないものだ」と述べられています。
ではどうして維摩は菩薩たちに「不二」について弁ずるように求めたのでしょうか。その点について、『維摩経』における維摩の役割という視点から考えてみたいと思います。
病の根本を示す「維摩の沈黙」―不二即慈悲
 維摩が病気になって見せているのは、衆生に「病が生じる原因を知らせるため」です。そして、病の根本原因とは「対象を捉えること(所縁)」であり、それは何かにつかまることであると説かれています。維摩の問いを対象として捉えた菩薩たちは、それを原因として、戯論という病を発症しているといえます。
一方、維摩は文殊の質問を捉えることなく、すなわち所縁を断ち、三界の境界をはるかに超えて、病の原因を超脱しています。「維摩の沈黙」はその姿を示しているのであり、それは皆を病から救いたいという善巧方便にほかならないと言ってもよいでしょう。
方便とは仏・菩薩が衆生に近づいていく手立てであり、また方便を投げかけられた衆生にとっては仏に近づいていく頼りとなるのです。善巧方便は『維摩経』の核となる思想であり、不二・慈悲・智慧も方便に収束されていくと言っても過言ではないかもしれません。維摩は「般若波羅蜜(智慧)が母であり、善巧方便が父である」と明言しています。
不二とは形而上学的概念ではなく、自他平等という仏の慈悲の実動であり、極めて実践的なものです。その実践とは、山口益先生が、「(仏陀は)自らの正覚の解脱楽に停滞してその中に閉じこもる術はなく、そこにはおのずから、自らと全人類とを平等化(to equalize)することに向かう。そこに自他平等の実践がなされうることになる」(『仏教思想入門』、理想社、1968、144頁)と言われるときの実践であり、それは「passion(suffering:苦悩)をcommunize(to make common property:共有物にする)という意味でのcompassion(慈悲)」(前掲書、145頁)にほかなりません。即ち、不二は衆生救済に動きださずにはいられない慈悲そのものであり、論ずべき思考対象ではなかったのです。
すべてのものの淵源としての沈黙
 維摩は「不二=慈悲」を沈黙で体現したのですが、その沈黙の彼方に何があるのか、沈黙はすべてのものの淵源としてあるという考え方をご紹介してみたいと思います。
「沈黙の相」について、マックス・ピカートは『沈黙の世界』(佐野利勝訳、みすず書房、1964)の冒頭で次のように記しています。
「沈黙には始めもなければ、また終わりもない。沈黙は、万事がまだ静止せる存在であった、あの歴史以前の時代に由来しているものと思われる。沈黙は、いわば創造に先だって在った永劫不変の存在のようだ。」(同書9頁)
玉城先生や河波昌先生もいわれていたビックバンにあたる根源的なものとして沈黙が捉えられています。玉城先生は沈黙の彼方にわれわれの還るべきいのちのふるさとがあり、そこは安らえる世界だと言っておられます。
鈴木大拙は、「普通には維摩の一黙をその黙のところに解すのであるが、自分の考へではさうではない。この一黙は、不言不説ではなくて、凝念不動でなくてはならぬ。…… 維摩の黙は語・黙の外に看取すべきである。…… 維摩の黙を以て、不二法門の言説以上であることを示したものと考へる間は、維摩にお目にかかれぬ。彼は疾くに白雲萬里の中に飛び去ってゐる」(『鈴木大拙全集』第十五巻、岩波書店、1969、381-382頁)と述べています。
「凝念不動」の「不動」は「一体」と同意で、「不二」はもとより「不動」です。なぜなら、動いて対象を捉えたら主・客が分離して二となり、二となったところには好悪の感情が起こりそこに瞋恚(怒り)の心も起こってくるからです。ちなみに、阿閦仏国(妙喜世界)の不動如来の「不動」の原意は「決して怒らない=不瞋恚」です。維摩はその不動如来の阿閦仏国から、衆生済度のためにこの娑婆世界に来生しているのです。
おわりに
 河波先生は「キリスト教と仏教、とりわけ光明主義との間には多くの類似した点がみられるが、それは単に双方に相通じるものがあるという次元にとどまるものではなく、そのもう一つ奥に疑うことのできない宗教的事実そのものがあって、それが東西両宗教に現象しているというべきである」と述べておられます。そして「宗教的事実(光明)を体験するにはお念仏を称えることです」と言っておられますが、これと同様のことが東方教会の「イエスの祈り」についても言われています。
平和への願いが切実である今日、仏教とキリスト教といった宗教の違いに注目するのではなく、違いを越えた共通性、あらゆるものの彼方にある「不二の世界」に目を向けいくべきではないかと考えています。

「トップダウンの四大智慧」

佐々木有一先生
報告者 花輪智之

 はじめに如来の大慈悲ありき。
 遍く十方法界を円かに照らす光は、一切に産みと育ての大智慧をあらわし給う。
「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」
 弁栄聖者の御教えの根幹である「四大智慧」について、佐々木講師から懇切丁寧にご教授いただきました。

第1 如来と衆生の基本関係

 光明主義が説く「霊性」は人がそれぞれ具有しているものでありながら、そのままでは、「伏能」である。開発されてはじめて真実の自己となり、神人合一、生仏一致、大我小我の冥合等といわれる境地に到る。如来と衆生との関わりは如来の智慧の働きという側面からも捉える事ができる。

第2 弁栄聖者の智慧論

【総論】
▼聖者は智慧の伝統説を踏まえつつも、ご自身の自内証、ご自身の悟りの実地体験から帰納的(理念からの演繹ではなく)に新しい解釈として智慧論を打ち出された。
▼念仏者は五根五力七覚支へと階梯が進むに応じて如来からの啓示を受け心霊が開発されて、智慧の光明に浴するに到る。
▼四大智慧をこの身に頂き、「聖き心」によみがえり、さらにすすむと深化し、やがて「聖き世嗣ぎ」という立場にのぼる、これが浄土に住するということである。(往生とは状態の変化であり、浄土は「去此不遠」であるといえる)
【四大智慧とは】
 無辺光の四大智慧とは、一大観念態(大円鏡智)と一大理性(平等性智)と一切認識の本源(妙観察智)と一切感覚の本源(成所作智)であり、法身の四智と報身の四智と両方面がある。
○法身の四智→自然の一切万法にいきわたる天則秩序の理性
○報身の四智→如来の自境界である仏智の光明界に帰趣させる為に、衆生の四智を照らす
念仏実習の観点から次のような順序で四智を理解する事ができる。(主に報身の四智を軸とする)

①作智(成所作智)― 一切の感覚の本源。
▼法眼を開き、自分の心の中で、目の前にあるが如く如来を拝む(霊応身にお会いする)ところに到らしめる作用。(仏の慈悲の力が加わって、この身に見仏が起こる)
▼法眼の世界で観ずる心相は法界の差別相。
▼光明の恩寵(啓示)により霊性開発が進むにつれて、慧眼も開かれ、慧法両眼満位の仏眼が作智の全分現となる。
②察智(妙観察智)― 一切認識の本源。
▼目に見えないものに包まれ、また結ばれて主と客が融合して一体となる作用。→これにより、感応道交、入我我入、霊応身の勧請と安置が生じる。
▼衆生は察智の感応道交等により仏智の感化を被る。
▼恩寵による啓示は智慧光が仲立ちとなり、察智により内容が示される。
③性智(平等性智)― 一大理性。
▼真実の自己、大我(禅家でいう「天地と我と同根、万物と我と一体」)の境地。→無差別の実相を観じる慧眼の世界。
▼万物の根底にある法身一大理性。→如来は平等性智によって宇宙全体から衆生の個性に至る一切を統攝し、慧眼の世界を司っている。
▼察智の衆生との感応道交等の働きは性智に起因する。→仏慧の眼が開けるには、報身平等性智の御働きが不可欠。
④鏡智(大円鏡智)― 一大観念態。(観念態とは主観・客観の統合に対する聖者の造語。ゆえにすべてが自己に見える)
▼すべてが自己のうちにある境涯。→法眼と慧眼を統一した仏眼の世界
▼鏡に映すのではなく、鏡のようなものを生み出す。(主、客の発現の本源)→「自ら境界を現じて自ら感覚す」(弁栄聖者)
▼鏡智は宇宙(法界)の絶対観念態。→「個人の阿頼耶識は元来大円鏡智の一分たるに過ぎず、個人の心霊開発するときは一大観念すなわち大円鏡智に合一し相応する」(『無辺光』)

第3 弁栄聖者四大智慧論の独自性

①自内証から帰納的に
 冷暖自知の智慧の内容が、聖者の自内証をもとに造語や他分野の術語の応用を伴いながら、縦横無尽に言葉をつくして語られている。(覚者の大慈悲の発露ならでは)
②トップダウンの四智
 凡夫の識が修行によって智に転ずるというのが、唯識による伝統説(ボトムアップの智慧論と言える)。伝統の唯識説だと、人人唯識が原則になるので、例えば阿頼耶識が転じた大円鏡智が悟った人の数だけ複数存在することになり難点とされる。
これに対して、弁栄聖者の四大智慧は、本有無作の本仏阿弥陀の特性(相大)として智慧体を解き明かすもの。(トップダウンの智慧論)
③智慧と仏身の関係
 聖者は産み主、育て主、教え主など如来のはたらきに着眼して、本地の無量光仏が衆生のために法報応の三身に現れた三身即一の仏身を立てられた。聖者が仰ぐ阿弥陀如来は酬因感果の仏身ではなく、本有無作の大霊。一切知と一切能を有し、宇宙万有の根本として独尊であり、中心に統攝、終局には帰趣という二種の霊徳を有している。このような関係の中で四大智慧が縦横に働いている様子が明らかにされている。
④生産門と摂取門
 仏身と連動した四智の働き方に着眼して「法身の四智」(自然界の一切に関わる産み主のお働きに関わる)、「報身の四智」(個々の念仏者に及ぶ育て主のお働きに関わる)が明らかにされている。
⑤智慧の啓示と新五眼説
 念仏の進みに応じて仏智が衆生に啓示されるという関係が示され、啓示に伴い開かれる心眼が龍樹以来の五眼説を換骨奪胎した新五眼説の中で明らかにされている。また、如来と衆生を結ぶ神秘の仕組みが四大智慧相互の絡みを含めて明らかにされている。

第4 心眼を開く成所作智

【四智の働きの相互性】
 憶念念仏の修行が進んで念仏七覚支の段階に入ってくると、如来の四智がさまざまに働いてくる。
▼「聖き心によみがえる」とは、如来と衆生個人との鏡智による「観念的致一」、性智による「内容の融合たる致一」がおこること。この如来の内容と個人の内容とが融合渉入し、本来一如、神秘的に玄妙の真理を知見するところの融合の状態は察智の作用。
▼鏡智の絶対観念態、性智の絶対理性態はともに法界の総相とされる。この両者を根底として感覚的差別の上に現れる心相が作智であり、別相とされる。
▼総相と別相との両方の関係に現れるのが察智であり、如来の心光と衆生の信念との関係をなすところの智相といえる。
【作智が顕現する世界】
 如来と衆生の三縁(親・近・増上)のうち、特に近縁において、鏡智、性智、察智が絶妙に作用し、それに応じて、衆生の側に、心眼―慧眼、法眼、仏眼―を開いていくのが作智。
 心眼の各世界は『無辺光』(454頁)によれば、次の通り。
「法眼等 心霊界の勝妙の五塵を感覚す。」
「慧眼等 宇宙本体を直観し。彼此一体観。」
「仏眼等 慧眼と法眼を統一して五根互用。円融無碍。」
 聖者は作智の全分が顕現する世界を次のように説いている。
「如来の五根と及び所感の五塵とは如来作智の作用にして、能感の五識と所感の五塵と一体の両面なれば、能所の異あることなし。如来は依報の万物の中に如来眼ありて正報を見る、すなわち色心不二なり。・・・三世常恒自然法爾の作用は唯仏与仏の境界、如来成所作智の作用なり。これを仏の五根に対する五塵の境とし、作智の全部とする。」(『無辺光』393~394頁)

 最後に、田中木叉上人のお手紙で述べられた四智についての一文(『田中木叉上人遺文集』Ⅲ法の友、451~455頁)を味読しました。上人の温もりが伝わる行き届いた言葉により、平等(あまねく)一切の各々に応じた如来四智の光明摂化の慈悲深さを味わい、日々の念仏の糧に為さんという思いを新たにしました。

「弁栄聖者の『維摩経』観」

光明園主 大南龍昇上人
報告者 千葉知織

 在家仏教の立場から仏の教えを説かれた維摩居士。在家者の仏教のあり方を考え、在家者に注意深く応接された弁栄聖者。聖者は『維摩経』のどこに注目していたのか。

○はじめに
  1. 弁栄聖者の大乗経典観は大乗経典が仏の三昧定中の消息を伝えるもので、お釈迦様の境地を理解するには、我々も三昧に入らないと本当の理解はできないという。(参照 『ミオヤの光』智慧光の巻、第四巻391頁)
  2. 光明主義思想に関わる大乗経典に、『浄土三部経』、『法華経』、『華厳経』、『仏説無量寿仏名号利益大事因縁経』、『楞厳経』があり、加えて『維摩経』が重要である。
  3. 聖者と『維摩経』 『維摩経』は異名で『不可思議解脱経』ともよばれる。異名の解脱の意味は不可思議解脱品第六に説かれる。この品の獅子座の出現の如き神変、また仏国品第一の大宝傘蓋の神変が、聖者がこの経に興味を持たれた由縁でもあろうか。また仏弟子たちが維摩居士に論破され、やり込められる痛快さ、何よりも維摩居士の「衆生病むが故にわれ病む」の一句に聖者はご自身の体験を重ねて深く共感されたのではないか。

ところで聖者が維摩経に関説する遺文は決して多くはない。その中で聖者が注目された教説と思想を提示するが、最も力を注がれたのは仏国品第一「心浄ければ、仏土も浄かるべし」の教説であった。

○その要点
  1. 一音説法
    一音説法とは、仏の説法が受け取る者の能力により異なる理解となること。如来様を慕う心の多い少ないで解り方も違ってくる。その人が持っている力量以上の理解はできないので、その力量を増すにはお念仏をしようということです。(参照『弁栄上人書簡集』530頁、弁栄聖者から鈴木尊宿へのお手紙)
  2. 維摩の病気
    維摩と同じように、一切衆生の病気が自分の病気となり病んでいる聖者の様子がうかがえる。そのことは、聖者がご自身の病後に信者に出された手紙にうかがえる。「いか成る病気で御ざると問ひますと、居士は、実はわたくしの病気は一切衆生の病気が私の病気なので、衆生の心の病が治らぬ間は私の病気の治りようはありませぬ。(中略)今愚衲の病気もここにあります。(中略)この衆生の病気がもっとも愚衲の病気にて寝てもさめても悩んで居る次第であります。たとへ全治には到らざるとも何分かは前途に光明を見まほしくて候。」(『御慈悲のたより』下巻40頁)
  3. 不二門と沈黙
    入不二門とは善悪、罪福、浄穢などの二項対立からの脱却を説く。例えば、善悪の定義は相対的で良心も変化していくもの。相対的ゆえ善の反対は悪で、善も相対的であり根源的ではなく、普遍的な意味をもたない。
    この世界は如来様の体内に展開している。人は如来様と本質をひとつにし一体となることで本当の自由を得られる。真如に対する信をおこすことの重要性が示されている。そして聖者は「人は如来真我の中の心霊我として始めて自由を得べし。」(『無礙光』134頁)と説かれる。なお沈黙については、『大乗起信論』聴書(8)『ミオヤの光』縮刷版四巻305頁に触れられている。
  4. 「心浄きが故に仏土浄し」
    この言葉は第一章の仏国品に説かれる有名な教えである。聖者は此の三界(迷いの世界)の外に浄土があるというのは誤りでこの穢土が仏国土(光の世界)、この世界を肉眼で見るから迷いの世界に見えるのであり、仏眼で見ればここが仏国土だと示されている。そしてまた「本宇宙は本来一体なれども衆生が自らこの肉眼にてかく自然現象を感覚しているものなれば、自家肉眼の所見が全く実在なるものと自定したるも、前に述べし如く仏眼等を開き見る時は、吾人が未だ嘗て経験せざりし美天国は怱ちに実現すべし、『維摩経』にかかることを示されたり。仏の言くその心浄きが故に仏土浄し、…(中略)如来が安住したまう清浄国土の中に於いて衆生は不浄なる瓦礫莉蕀の国土を感ず。」と説かれる。
    『維摩経』は「仏国品だけで完結する」ともいわれる。穢土に清浄国土を建設するというこの教えは聖者の光明主義の目標に正しく一致するものであった。
  5. 心の浄化と五眼
    五眼は肉眼から仏眼へと心が浄まるプロセスを五段階に示したもので単なる思想で終わらず、修行体験することで進化する世界を明らかにしたものである。「しかるに衆生何故ぞ如来の清浄国土の中に在て衆生は穢悪充満の忍土を感ず。衆生濁悪不善の世界の中に在て諸仏聖者は常寂光の極楽を観ず。(中略)能感の機能種々あるとは仏五眼をもて。」(『無量光寿』248~259頁)

このような念仏三昧による境地の深化を解明することは他の徳目の場合にも見られ、弁栄聖者の実践思想の特色の一つであると、大南講師はお話して下さいました。