関東支部 平成29年11月

一行三昧会

鎌尾光栄

◇日 時:9月3日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:13名

〈ご講話〉起行の用心 その12 七覚支(3)

(5)定覚支

 先ず礼拝儀の定覚支のお頌を拝読致します。  

弥陀に心をうつせみの もぬけ果たる声きよく
三昧正受に入りぬれば 神気融液不思議なり
慈悲のみ顔を観まつれば 尽ての障碍も除こりぬ
入我我入の霊感に 聖き心によみがえる

 初めて仏眼が開かれる定覚支とはどのような状態なのか、聖者のご文章等から味わってみましょう。
 『宗祖の皮髄』では「オシベの花粉はメシベに入る。これがこれ聖胎なり、真の仏子となるの妙機なり」と。受粉して新しい命が始まるさまに例えて、三昧入神の妙味が明かされます。
 『人生の帰趣』では「身心ともに大我に融合して、身心ともに亡じたるごとくなれども、そのすべてが絶対に没却してしまったのではなく、霊我を通じて無限の大光に接するのである。(中略)如来の愛に充たされ喜びに充ち、三昧中に全く大愛に充満され、全部が如来に抱擁され、歓天喜地、これ三昧まさに発揮したる状態である」と。自分と大我が融合して喜びに包まれていきます。
 霊応身がしっかり安置された状態で、如来さまがはっきりと見える「正受」の心状になります。このように慧眼が開けて大我と融合し、同時に法眼も開けて如来に見えますと仏眼が開けた境界となります。この境界を定覚支といいますが、この初歩の仏眼が開けた定覚支で重要なことは如来さまから「啓示」がおこるということです。聖者は『法華経』の伝統用語を転用して、智慧光の偈に開示悟入を巧みにうたい込み新たな血肉を盛り込まれたのです。
 啓示を促す光明は智慧光ですが、啓示の内容は妙観察智の用であることに注意したいと思います。『光明の生活』に「察智の妙用によりて如来の心光と衆生の信念とは感応し、しかして人の仏智見を開き如来の妙境界を悟らしむ」とあります。如来の光明はもとより全一で完全ですが、定覚支以降の仏眼におこる啓示に際しては、無称光に加えて智慧光と無辺光で表される仏智の妙観察智とが連係しておはたらきになるのです。十二光が互いに円環してはたらく適例の一つといえます。啓示については次回にご説明致します。

念仏と法話の会

志村念覚

◇日 時:9月23日(土)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:20名

 爽やかな秋晴れの中、午前中は礼拝儀によるおつとめとお念仏、午後は大南園主よりご法話があり、その後、彼岸会のご回向があり参加者一同で『般若心経』を唱えました。ご法話は「人生帰趣としての宇宙の大法」の演題で、『逆修説法』から法然上人の光明観における生成と摂取について見、更にそれを宇宙の大法論にまで展開する弁栄聖者の生摂論の御教えの御法話をいただきました。 

〈御法話〉 人生帰趣としての宇宙の大法

一 はじめに(生前葬と『逆修説法』)
 生前葬とは生きているときに自分の葬儀をすることであるが、著名人には水の江瀧子や養老孟司、ビートたけし、小椋桂(生前葬コンサート)などがいる。逆修説法はこの生前葬と同類のものであるが、法然上人が弟子の安楽房遵西の父、中原師秀の請により死後の冥福を生前に祈る五十日間の法会の導師をつとめ、その時行った説法の記録を『逆修説法』という。内容は、初七日には新仏像の開眼にあたっての仏身論から始って浄土三部経に関する所説、三七日は阿弥陀仏の功徳(名号の功徳・光寿の二義)などを中心に説き、法然上人の説法中、最も量的に多く詳しい。
二 法然上人の光明観 ―『逆修説法』を中心に―
 以下、藤本浄彦先生論考を参照(『法然浄土宗学論究』)

(一)光明生成論 ―十二光仏の体験的受領―
 法然は阿弥陀仏の「名号の功徳より勝れたものはないとして『無量寿経』説示の十二光仏を示し、「ここに知りぬ、名号の中に光明と寿命との二義を備えたりという事を。かの阿弥陀仏の一功徳の中には寿命を本となし、光明勝れたるが故なり。」と名号に二義が備わり寿命が根本で光明が勝れているからと述べる。そこには法然自身の念仏体験の受領、表明を窺うことができる。その中の清浄光・歓喜光・智慧光の受領を示そう。 清浄光については、
心を至して専らこの阿弥陀仏の名号を念ずれば、かの仏、無量の清浄の光を放ちて、照蝕摂取したまうが故に、淫貪・財貪の不浄を除き、無戒破戒の罪愆を滅して、無貪善根の身と成りて、持戒清浄の人と均しきなり。(『昭和新修法然上人全集』二四六頁) 歓喜光については、
専ら念仏を修すれば、かの歓喜光をもって摂取したまう故に、瞋恚の罪を滅して、忍辱の人に同じ。これまた前の清浄光の貪欲の罪を滅するが如し。 智慧光については、
しからば無智の念仏者と雖も、かの智慧の光をもって照らして摂取したまう故に、即ち愚痴の愆を滅して、智者と勝劣することなし。
周知のように『無量寿経』の歎徳章に「是の光に遇う者は三垢消滅し身意柔軟にして善心生ぜん」とあり、十二光仏の光明の働きが照蝕摂取であり、光明の照蝕による「煩悩の消滅・身意の柔軟・善心の生起」、すなわちそのように成っていくという生成論が積極的に説かれているのである。
(二)光明摂取論 ―常光と神通光―
 法然の念仏体験から受領される「光明の徳用」は、阿弥陀仏の光明によって極楽浄土に摂取され捨てられることがないという究極の意味を有する。『観無量寿経』(以下『観経』という)の説く「一一の光明は十方の世界を照らして念仏の衆生を摂取して捨てず」の実現にある。十二光仏を述べてから法然は十二光の功徳は多種あると断ってから、「大きく分かちて二あり。一には常光、二には神通光なり」とし二光について次のように説かれる。
常光とは、
此の阿弥陀仏の常光は、八方上下無央数の諸仏の国土に於いて照らさざるという所なし。八方上下は極楽についての方角を指す也。
常光は『平等覚経』では「頭光」、『観経』では「身光」と呼ばれる。「長く照らし、断じることなく照らす光」と法然はいう。
神通光とは、
是れ別々に照らす光なり。(略)阿弥陀仏の神通光は摂取不捨の光明なり。念仏の衆生有るの時は照らし、念仏の衆生無き時は照らしたまう無きが故なり。
とあるように、念仏の衆生のみが照らされる光明であり神通光によってのみ念仏の衆生は摂取不捨、すなわち極楽浄土に摂取され捨てられることがないというのである。つまり「摂取不捨の光明」は阿弥陀仏の神通光であり、阿弥陀仏による「摂取不捨の実現」がそこにあることとなる。
藤本先生は「生成」の意味を念仏を修することによって光明に照蝕摂取され、貪瞋痴の煩悩の器である凡夫が、持戒清浄・忍辱・智ある人と同じになるという「生成」としての念仏の受領を見い出している。また「摂取」については、神通光に着目、その光に照らされることによって阿弥陀仏による「摂取不捨の実現」があると説明されるのである。
三 弁栄聖者の宇宙の大法としての生摂論
人生帰趣の標準
 弁栄聖者は、仏陀が衆生を救うことについて、人生帰趣という衆生が人生の目的をいかに実現するかということを、そのよりどころとなる目あてとしての標準には両面あると述べている。一には「宇宙の大法」と「大勢力」に従うことであり、二には衆生自身に具わる霊性を開発することだと示している。このことについて聖者は、
「一切の生存よりすべてが宇宙の大法則に則らなければならぬ。人は宇宙の法則を外にしてただ人間の力を以て自然法を左右することはできぬ。すべて宇宙に存する理法を発見して人間が応用することができる。また一面に各自の本能性の伏能を開けば実に驚くべき力を有することを得。」
と、宇宙の大法に従って生き、各自に具わる霊性を開発することが人生帰趣の標準という聖者の仏教観を示している。

(一)初に宇宙大法(仏法)
 更に聖者は宇宙の大法である大ミオヤの働きに二面があると説いている。一面は天則を以て天地万物及び衆生を生成することであり、自然界の方面に向かって衆生を発展し因果的に生理的生活をさせる理法で衆生法とも云い、法身仏の範囲であり、これを研究するのが自然科学であるという。もう一面は終局目的を以て衆生の心霊を永遠常住の方面に摂取する法であり、心霊界の方面に衆生の心霊を摂取し如来の目的の方に向かって心霊的に生活させる法で仏法と云い、報身仏の領分である。またそれを研究するのは哲学であり、先の自然科学を含め、これに対応するのが宗教であるとして自然科学と哲学を包含したものと聖者は宗教を捉えている。
宇宙大法に二面ある中で、一面からは、宇宙の万物は自然界の因果の法則に依って行われているとし、自然界の生物がひとつとして因果法によらずして生成するものはなく、また因果のみでなく、空間的には因縁の関係を以って、時間的には因果の関連を以って行われていると、すべては因縁と因果の法に乗っ取っており、自我が入り込む余地のない仏教の無我説を説くものでもある。
(『光明の生活』初版本三八〇―三八三頁参照)
(二)生摂論
 弁栄聖者は生産と摂取の関係を生摂論として論じている。生産門は絶対である如来性より自然界の世界と衆生とが産出されること。摂取門は世界の衆生を選択して如来光明中に摂取して永恒の都である聖き御国に帰趣させることである。仏教哲学では前者を流転門、後者を還滅門という。前者は真如を元因として縁によって生起することであり、後者は生死の源なる煩悩と業が滅して涅槃に帰還することである。仏教は哲学と宗教との両面がある。
宗教は生命あるわれらの救度を求める客体なる故、その対象(客体)を霊的人格なる如来であるとし、尊崇し帰命する本尊であるという。衆生界は絶対である如来より生産されたものである。故に如来は世界の衆生の大慈父と仰ぐべき絶対大人格である。大人格の慈父である故に産出するという。これを哲学的にいうと慈父を真如の理という。真如は理体であることから生産といわずに一切万物は真如より縁起したと説く。宗教の対象は人格的の故に産出すると説いている。宗教と哲学とを混同してはいけないと聖者は説いているのである。
生産と摂取の関係について、一切衆生の生産の根底とする如来を法身如来とし、一切衆生を如来の光明により摂取して永恒成仏させる如来を報身如来として法身と報身の即一不二の関係を生摂論として説いているのである。
(三)生産門
生産門については「頒に曰く、生産門には法身の、一切智能が天則の、因縁因果の律をもて、世界と衆生を生成す。」とあるように生産を生成とも云っている。生産門は如来法身が天則をもって因縁因果の関係により世界の方面に向って産出しまた養成し給う義なのである。
(『人生の帰趣』増補版一九三・一九四頁参照)
(四)摂取門
 前の章で法然上人は摂取を阿弥陀如来による極楽浄土への往生に見たが、聖者は摂取門について、「初め法身より産出された衆生の進み進みたる終局は如来の目的である至善至霊の御許に帰らしむるに在り。」と、摂取について共通したものを見ることができるが、以下の点では聖者の独自性も見られる。自力門すなわち聖道門は還滅門に相当するという。還滅とは、惑と業により生死の苦を受ける衆生が仏法に遇い解脱の道を得て生死の源なる煩悩を滅し生死の源を滅するが故に本来の涅槃の真天が顕示するということである。この聖道門の道によらなくとも摂取門により宗教的に即ち絶対大なる御親の目的に従い、また如来は終局目的に摂取する為に慈悲と智慧の光明を以て信念の衆生を如来が迎える引接(いんじょう)があるという。即ち如来という御親のもとに引き取りくださるということである。
(『人生の帰趣』増補版二〇八頁参照)
(五)三身と生成・摂取
 弁栄聖者はミオヤの三身について、「もし衆生にして法身の恵と力とによらざれば、この身心を受けまた生成すること能わず。報身の霊力に信頼せざれば、霊性を成熟すること能わず。応身の教えによらざれば救霊の真理を知ること能わず。」と述べ、ミオヤは本は一体であるが、衆生の為に三身に分れて生成し摂取してくださるのである。
(『人生の帰趣』増補版二七六・二七七頁参照)
四 むすびに
 法然上人の光明観における生成と摂取の二種の機能説に対して弁栄聖者の宇宙大法の二面としての生成(生産)と摂取の生摂論は二様に表現されている。一方は、天則をもってする天地万物及び衆生を生成する側面と衆生の心霊を永遠常住の方面に摂取する側面を持つ。他方の生産門と摂取門の二門と捉えられる場合の生産門は絶対なる如来性より自然界(世界)と衆生が産出される一面、また摂取門は世界の衆生を選択して如来光明中に摂取して永恒の都に帰趣せしむる一面を持つ。また後者の生摂論は法身と報身の二種の仏身に帰趨する。聖者の二様の生摂論の意趣するところは同一であり、特に摂取説については法然上人と弁栄聖者は共通しているといってもよい。

第17回 関東支部主催親子別時念仏会

植西武子

◇日 時 平成29年7月22日(土)~23日(日)
◇会 場 相模原・光明学園高等学校(修養室)
◇導 師 山上光俊上人(島根県・向西寺住職)
◇維 那 関東支部役員(森井明摂尼)
◇参加者 46名
*光明会関係の参加者:27名(大人21名、子供6名)*光明学園関係者の参加者:19名(在校生・OB 11名、教諭5名、子供3名、その他「法話」にPTA関係者数名参加)

〈はじめに〉
 今年も好天に恵まれ、朝から太陽が燦々と輝いていました。9時前に学校に着き、修養室に直行しますと、会場は完璧な状態で設営されておりました。伊藤旭栄先生と生徒の皆さんで前日から準備して下さいました。毎年のことながら、すっかりお世話になりっぱなしで申し訳なく思いました。鴨志田先生も会場設営や環境整備に万全のご配慮をして下さっています。先生の陰でのご協力がどれほど支えになっているか計り知れません。
 伊藤支部長の出迎えで山上上人は早朝に会場に到着されており、控え室で待機して下さっておりました。
 その内に生徒達も集まり、関東支部の役員の方々はそれぞれの分担による、準備をして下さり、いよいよお別時始動の雰囲気となりました。
〈参加者〉
 今年も遠方、名古屋から7名のご参加がありました。

  • 毎年重い病気を抱えながら、欠かさず参加下さっていた内藤規利子さんは、体調が思わしくなく、お姿を見ることが出来なかったのは残念でしたが、お孫さんの友里さんが参加下さったことは嬉しいことでした。大学生になった友里さん(19才)は小学生(8才)の時からクラブ活動のため中学3年間を除いて毎年参加して下さっています。
  • また、内藤さんの妹さんである渡辺さんがお嫁さんと3人のお孫さんを伴って、渡辺ファミリーで参加下さったことはとても嬉しいことでした。親子別時の神髄であるファミリーが新しく誕生したことは何より素晴らしいことと思いました。
  • また、小川さんは同じく、遠方名古屋からここ数年、連続して参加下さっています。子供の頃に鉢伏山親子別時に参加されておりました。今回のお別時にその時の幼なじみが数人参加されています。先人の足利先生や中牧先生方がご尽力下さった鉢伏山親子別時が如何に幼い心に確たる宗教心を培い、その友情が実に太い絆で結ばれていたかと言う証を今つくづくと実感させられます。
  • 関東支部の役員はほぼ全員が参加して下さいました。しかし、長年に亘り、支部長として実に誠実に、着実に、その任を果たし、支部の発展にご尽力下さった田代直秀氏のお姿がないことは非常に淋しく、残念に思われました。きっと第四次元の世界からにこにこしながら私達を見守って下さっていたことと思います。
  • 今年、男性の方2名が初参加で加わって下さいました。初めてで戸惑われたことも多々あったと思いますが、とても嬉しいことでした。鳴海さんはファミリー参加となりました。金子さんはその後の唐沢山別時にもご参加下さいました。感謝の極みです。
〈行事内容〉
(1)茶話会
 子供や生徒達は初対面であるため、雰囲気づくりにお菓子を食べながら全体で自己紹介をしました。その後、更に親睦を深めるため、世代間を超えた大人、生徒、子供の混成チームで話し合いました。これを終えると生徒や子供達には笑顔が見られ、和やかな雰囲気となりました。
(2)献灯式
 本別時の中心行事はやはり献灯式です。厳粛な雰囲気の中で年少者から順番に一人一人が緊張した面持ちで仏前に灯りを捧げます。遠藤由起さんのピアノ伴奏で「聖きみくに」が流れる中を慎重に、ゆっくりと仏前に進みます。仏前の机にはあかあかと光を放つ燭台が数を増していきます。46の燭台から放たれる光の中で表白奉読がありました。儀式が醸し出す特別な雰囲気は人の心を清め、澄み切った世界へと誘ってくれました。
(3)お茶会(ティ・セレモニー)
 お別時中に光明学園の生徒の皆さんと触れ合う機会が少ないので、その接点ができればと昨年より取り入れました。日本文化の代表たる緑茶にも接してもらう機会になればとの思いもありました。40人分のお茶を点てるのは大変なことでしたが、田代さんと遠藤さんが頑張って下さいました。そのお運びも大変でした。生徒達も大変気に入ったようで、話が弾みました。会の進行はやはり山上上人のリダーシップにすがってしまいました。明るく、親しみやすいお上人の人柄で会を活発に、明るくして下さり、盛り上がりました。毎年のことながら、お上人に頼り過ぎ、酷使したようで誠に申し訳なく思いました。
(4)数珠づくり
 昨年より新しく取り入れたことですが、生徒達は喜んで取り組んでいました。昨年も参加していた生徒は熟練者として、友達のサポートをしていました。昨年の作品と2つ重ねてはめている生徒もいました。これは大変好評でした。参加したこと、習得したことが形となって現れる。よい記念作品でした。森井明攝尼のご尽力の賜でした。
〈ご法話〉要点のみ
 ご法話は子供向け(一席)、青年向け(二席)、大人向け(二席)がありました。

(1)子供向け法話
  • 小学1年生の詩を紹介・・・内容は私の体にいっぱい家来がいる。(足や手)「足」は「歩く」ことを助けてくれる。「手」は手を繋ぐことができる。
    「手」を見てごらん。「手」は握ったり、開いたりできる。何故できるのか? 不思議だな。それは佛様の力である。天地、宇宙にそうさせる力がある。
    私達を生かそうとする働きがある。それは如来様である。
  • 「でんでん虫の悲しみ」・・・背中の殻の中には悲しみがいっぱい詰まっている。どんな悲しいことがあっても、逃げないで向かっていくことが大切である。
(2)青年向け法話
  • 最初テープで「天地の声」(NHKのみんなのうた)を聴く。「川のせせらぎ海のさざなみ海の音風の音」で始まる歌詞は「大自然に生きる私」を歌ったものである。その後、その歌詞の一節一節毎について説明された。その内容として、一即一切一切即一、全体があって個体がある。死ぬ命と死なない命、大自然に生かされている私、大宇宙に生かされている私、法身のみおや、報身のみおや。とお話を展開されました。
  • 礼拝儀の表紙をめくると最初に目に入る三身と十二光佛の図を用いて、三身の説明と十二光佛の働きに触れられました。また、み佛は慈悲のまなこを子にそそぎ子は南無阿弥陀仏と親を仰ぎつの聖者のお歌を示してheart to heartの関係の大切さを説かれました。
(3)大人向け法話
  • 釈迦、善導大師、法然上人と受け継がれた仏教をさらに発展して説かれた弁栄聖者の光明主義は全てを包括している。なお、はずしてはいけないのは如来光明主義である。弁栄聖者は「如来」を決してはずさない。「如来よ」と呼格で呼びかけ、「告白し奉る」としている。その佛思いの気持ち(念)が大切である。「臆念」の(念)が大切である。念仏は念仏しないとわからない。佛思いの気持ちを育てるには称名し、慕うことである。如来の救済力は「佛思いへの生活」に尽きる。
〈おわりに〉
 本年は別時中、ずっと心の和む雰囲気で楽しい2日間でした。この思いは他の参加下さった方とも共有できたことでした。大らかな山上上人のお人柄によることが大であったと思います。又、光明学園の伊藤先生を中心に下口先生、学級担任をしながらのお忙しいところ、可愛い僕ちゃんを伴ってご指導頂きました。また、茅原田先生は写真撮影でお世話になりました。今年は期間中に多くの写真を展示くださり、とても嬉しく思いました。今回、参加下さった皆々様に心よりお礼申し上げます。来年の再会を楽しみにしております。