関東支部 平成29年9月

関東支部報告

一行三昧会

鎌尾 光栄

◇日 時:7月2日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:18名

〈ご講話〉起行の用心 その11 七覚支(2)

(2)精進覚支

 礼拝儀の精進覚支のお歌を拝読致します。

声声御名を称えては 慈悲の光を仰ぐべし
身心弥陀を称念し 勇猛に励み勉めかし
金剛石も磨きなば 日光反映するが如と
三摩耶に神を凝しなば 弥陀の光は輝かん

 択法覚支で如来様を心の中に憶いあげることができるようになった(正鵠を射ることができた)ら次は精進覚支の段階です。『人生の帰趣』に「種々の業相現前するもあえて意に介せず、霊性現前に突進す。」とありますが、これは如来様を憶う軌道から外れたら妄念を追いかけずに、捨て置くことが大切との意味です。気が付くと脱線しているのが「串習の妄念」で、気になることを思いながら念仏すると「故起の妄念」となって、これは絶対いけません。

(3)喜覚支

偏に仏を見まほしく 愛慕の情いと深く
身命惜しまず念ずれば 即ち弥陀は現われん
念念仏を念じなば 慈悲の光にもよおされ
霊きめぐみに融合うて 歓喜極なく覚おゆれ

 『宗祖の皮髄』に「歓喜天地にみてり」とありますが、これは慧眼が開けると身を貫くような喜びに包まれることです。慧眼は通仏教では「無分別智」と言われ、十地の初地である「歓喜地」と同じ境地に至るわけです。
 『人生の帰趣』には「霊妙なる定中の喜楽を感ず」と表現されています。
 心が統一できてくると各一分ながら法眼(如来様が見える)と慧眼(自他彼此の区別、つまり一切がなくなる)が時を異にして私の心の中に交互に現れます。「背面相翻」という言葉はこの状態をよく表しています。手のひらの裏と表を交互にみれば、かわるがわる両方が見えますが同時にはみえません。天台仏教の二物相い融じて差別なしと考える「即」の思想の、ある段階を笹本戒浄上人が援用されたものでしょう。

(4)軽安覚支

御名に精神はさそわれて 心念ますます至微に入り
三昧純熟する時は 清朗にして不思議なり
我等が業障ふかき身も 慈悲の聖意にとけおうて
身心あるを覚えで 定中安きを感ずなれ

 『宗祖の皮髄』に「無我無意識になれば心意を煩わすものなし。身心ともに軽安を覚えて、すなわちわが有を感ぜず」とあります。慧眼(空)が満位となり、私自身が私自身を感じないような「隠没」の状態となる一方、法眼(色)も成長し次第に仏眼に近づきます。
 次のような戒浄上人のご法話は、こうした境涯の進展が見事に解説されています。後半は背面相翻が次第に高度になり、やがて仏眼を得ての智慧光の啓示が深まっていくことの説明です。

 「自分の立っている処が瑠璃地であるのを拝んだり、妙なる音楽を聞くということがあるようになります。妙なる音楽をちょっと聞いただけでも、身も心も一切の汚れを浄められた感じがいたします。また結構な香り、それは身も心もとろけるような結構な香りであることがあります。それが束の間に消えることがあり、また数日にわたって消えぬことがあります。お浄土に生まれたというのでありますから、お浄土のことをチラリホラリ聞いたり見たりする訳であります。
 これは未だ眼が十分に発達しておりませんために、お浄土のことをチラリホラリとしか聞いたり見たりすることができない訳であります。」
 「しかしなお進んで、一心にお念仏して如来様のお育てを受けますと、私共、如来様の慈悲の聖容を見奉ることができるようになります。それも初めは、ハッキリではなく、自分の想像に過ぎないと思われることもありますが、しかし、それがお浄土の如来様である、と信じてじっとお見つめ申して一心に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお念仏申しておりますと、遂に三昧心成長して、初めとはとうてい比較にならないほどにハッキリと生ける大慈悲の聖容を見奉って、無限の法悦の中に、霊感きわまりなきに至ります。そうして、その生きていらっしゃる如来様の慈悲の聖容をふりさけ仰いで、一心に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と聖名をお呼び申しております時などに、たちまち何もかもなくなってしまう。如来様もなく、自分もなく、一切がなくなってしまいます。周囲の壁もなければ、天井も畳もありません。透きとおった明るみもありません。自分の叩いている木魚の音もなく、木魚を叩く努力の感じもありません。それではお念仏申しながらグッスリと寝込んでしまったのかと申しますと、けっしてそうではありません。ハッキリハッキリ目覚めております。
 形もなければ色もない、東もなければ西もない、堅さ柔かさ暖かさ冷たさというようなものもないというのでは、何が何だか訳の分からぬものかと申しますと、訳の分からぬどころか、何がハッキリしておるといってこんなにハッキリしたものはありません。こんなに確実なものはありません。ただ、その状態をしいて形容するならば、ただハッキリ目覚めているということができる訳であります。これはすなわち、実に空間を超越し、時間を超越し大宇宙としての自分、大我としての自分にハッキリと目覚めたのであります。
 私共は一心にお念仏いたしますと、如来様のお慈悲によってそのようにならせて頂きます。今申し上げたことが自分の事実となってまいります。了々として大宇宙が目覚めたる常平生の自分となってまいります。そしてまた、その大宇宙の中に再び如来様の慈悲の聖容を見奉ることができるようになってまいります。かくのごとく最初、如来様は感覚的啓示をお示し下さいます。そして次に写象的啓示、理想的啓示というように、だんだんお育て下さいます。
 感覚的啓示と申しますと、如来様の相好が拝めますとか、身も心もとろけるような結構な香りが感じられますとか、何ともいえない結構なものが身体に触れるのを感じますとか、瑠璃宝地を拝みますとかいうのを申します。写象的啓示と申しますと、如来様の御心をお示し下さることであります。如来様の御心とは大慈悲と大智慧とであります。理想的啓示と申しますと、このように修行してまいりまして、遂に法身の理法と合一させて頂きます。すなわち、無生忍を得さして頂いた時であります。それは開発位の満位であり、お浄土の学校の卒業のところであります。」(『笹本戒浄上人全集』上巻184~186頁)
 如来の啓示が始まるありさまも明かされますが、啓示は次の定覚支の主題となります。

念仏と法話の会

志村念覚

◇日 時:7月16日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:20名

 朝から大変な暑さの中、午前中はお念仏と礼拝儀、午後は大南園主から光明摂化主義について、その特色と実践と垂範の副題で弁栄聖者の御教えの御法話をいただきました。 

〈御法話〉

光明摂化主義 ―その特色と実践と垂範―

はじめに
 光明会の上首であった藤本浄本上人は「おもうてここにあれば現代を救う道は光明三昧(光明摂化の念仏)以外にはない」と述べている。光明主義は如来光明摂化主義というが、この摂化とは今を生きていく中で如来の光明の作用により霊性を開発し進歩していくことである。藤本上人は臨終の往生を約束する摂取とともに、摂化を説く光明主義こそが現代を生きる人々の救いの道というのである。この光明摂化主義について弁栄聖者の御教えを見ていきたい。
一 解脱と救済と摂化(『光明の生活』初版二七〇―二七二頁)
 仏教には教相判釈といって、ひとつの教えを仏教全体の中に位置づけ解釈するものがある。天台大師や法然浄土教等に教相判釈があるが、弁栄聖者は光明主義の教相判釈的な分類として、「仏教のうちに解脱主義と救済主義と光明摂化主義の三主義あり。」と説いている。
 初めの解脱主義は、戒定慧の三学を修して煩悩を解脱し成仏を目指すもので、大乗小乗仏教の聖道門がこれに属すという。
 次に、救済主義は、衆生は如来にその救いを信じて全てをお任せするもので浄土門がこれに属する。
 光明摂化主義は、解脱主義と救済主義を合わせたようなもので、衆生は如来から受けたる霊性と人間より受けたる煩悩との両性があるとし、如来の光明により霊性を開発し、煩悩を霊化することができるのである。
 以上の三主義について「見える」ということからわかりやすく例えている。すなわち、解脱主義は「眼が在るから見える」という。そして、これを汎神教とも捉えられるという。救済主義は「光が在るから見える」という。これは一神教と捉えられる。そして光明摂化主義は「眼が在り光が照らして下さるから見える」というのであり、超在一神的汎神教と捉えられるとする。
二 念仏(その実践の心)(『光明の生活』初版二七二―二七六頁)
 光明摂化により光明をいただくポイントは念仏である。その念仏の心持ちについて弁栄聖者は次のように丁寧にわかりやすく説明している。

 念仏という事を文字に寄せて説明すると、念という字は人、二、心。すなわち人が二人一つになっている相である。これは付会(こじつけ)の様なれども、事実にかなっている。念という事は自己の外に何物か又何者にか心が懸っている所から起る心の作用である。母が可愛い子を憶う。母の心には常に子を懐っている。その母の胸臆からその子を取り除いてしまうことは不可能。故にその母の心は子と二人が一つになっている。夫婦間に夫から婦を妻といい、婦から夫を我夫さま等といっている。その所以は常恒にその配偶者を心のつまにかけて離れぬ故である。また妻から夫を我背子というのは常に背負うて離れぬという義である。未だ結婚せぬ昔は形の上ばかりでなく心の中にも全く一人であった。すでに結婚した以後は心のつまに常にかけているものがある。それがすなわち念である。その配偶者がその胸臆の中にいる訳である。

 というように、念について親子や夫婦の関係に譬えて説明している。そしてこの念の心持ちを如来の霊性との結婚に譬え、

 宗教は各自の精神の奥に潜む霊性を発達せしめてしかして最霊なる如来の霊性と結婚せしめて、現在より永遠に至るまで離婚のない結婚を営み、しかして最も霊なる妙なる美なる心霊の家庭を造るのである。

として、如来の霊性との結婚は心霊の家庭の創造であるとしている。また聖者は「高等なる宗教心ある方にて霊的独身の方はない。」と、釈尊、善導大師、法然上人などを例に、「釈尊は肉に於てのヤソタラとの配偶は断じたるも霊性に於て無量光との結合は永遠にまで合一して変ぜず。」「聖者善導は衆生仏を憶念すれば仏もまた衆生を憶念すと。」「聖源空(法然上人)も彼の聖者等は悉く如来と共に霊的生活せざるはなし。これ念の心である。如来と二人が一となりし心である。之を念仏と云う。」と念仏を行う真意を述べ、その実践の心を説いている。

三 釈尊の垂範  (『光明の生活』初版二七七・二七八頁)
 弁栄聖者は、釈尊の宗教的信念の内容が記されている『無量寿経』の序説に、私たちの信仰心はいかに持つべきか模範を示されていると、次のように述べている。

 釈尊が弥陀三昧に入り給うたそのときに釈尊の精神世界は我等が肉眼に見る天地とは全く異にして絶対無限の霊界の清浄真天に無量光如来は赫々たる太陽として無量の相好光明あまねく法界を照らし給う、その弥陀の光明が反映せる釈尊の相好は譬えば太陽が満月に反映する如くなり。経にそのときに世尊諸根悦予し姿色清浄にして光顔巍々たること明浄なる鏡の影が表裏にとおるが如しと。

というように、弥陀三昧の釈尊は弥陀の光明に照らされて光顔巍々と輝き我々に範を示しているというのである。そしてこの光明について、

弥陀の光明は実にこれ人の精神をして現在を通じて永遠に活す霊力なり。現在より精神的に真の幸福と光栄とを与えそうしてすべての活動に無限の力を与え給う霊徳なり。およそ有ゆる宗教中に『無量寿経』中に現われたる釈尊の御身に示されたる宗教心の模範ほど積極的に活々したるものは他に無いと思う。

と述べ、現在の我々の霊性に働きかける霊徳の光明に照らされ、輝く釈尊をお手本としていくことを勧めているのである。

おわりに
 弁栄聖者は我々に具わる霊性の開発について次のように語りかけている。

諸君よ、あなたの御頭の中台の玉座に在ます霊性はもと大ミオヤの王子に在ませども未だ幼にして全身心を征服し統禦する権威を得給わざるなり。されば宇宙の大ミオヤの光明を被むりて幼君をして即位せしめて全身心を統率してミオヤの光明の下に自己の使命を果すべく無限の力を与えらるるように常に聖名を称えて祈り給え。

この聖者の熱いメッセージに応えるには、釈尊を範とし、如来の光明により今を生きる我々の霊性を開発するため、如来とひとつになる光明摂化の念仏を称えていくことにつきるのである。