関東支部 平成29年7月

関東支部報告

一行三昧会

鎌尾美津江

◇日 時:5月7日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:13名

 青もみじの美しい季節になりました。光明園の窓から見える柿の若葉も輝いています。透き通った清浄な緑を見て念仏していると気力が生じて元気になれます。さわやかなゴールデンウィークの最終日を過ごすことができました。茶話会の後は関東支部の役員会がありました。  

〈ご講話〉起行の用心その9 慧眼法眼仏眼(2)
真応身と霊応身
 お念仏をしていると心眼(慧眼、法眼、仏眼)が開けてきます。弁栄聖者はその仕組みを礼拝儀「至心に勧請す」にご教示です。
「…如来の真応身は在さざる処無きが故に 今我身体は 如来の霊応を安置すべき宮なりと信ず 諸の聖者の心宮に存しし如く…今や己が身を献げて至心に如来の霊応を勧請し奉る 霊応常住に我心殿に存まして転法輪を垂れ給え」
・報身にはそれ自らの御境界と衆生に感応する面とが在ます。その報身の衆生に感応する面を弁栄聖者は真応身とおっしゃいました。(笹本戒浄上人『全集』165頁)             
・見仏とは念仏者と真応身としての弥陀との交流にほかならず霊応身の勧請にまで熟したところが「聖き心」によみがえることではないでしょうか。(佐々木推考)
・「姿・立場をかえる」のは真応身(ひいては霊応身)の側ではなく念仏者の心、信仰、心機の側の変化、成長にあり信仰の篤さ、深さに応じてかわるのです。(佐々木推考)
・真応身の段階では報身性が残っており霊応身になると応身性が強くなるように思えるため、真応身はシンオウシンと読み、霊応身はレイオウジンと読んではどうでしょうか。(佐々木提案)
見仏の心的状態
 「絶対(報身)より自己(自己の霊性)の内的霊性に発現」するものが真応身より成り代わった霊応身ということでしょう。見仏とは自己の内に霊応身が現象することであります。縁起的の故に現象学的、ともいえようかと思います。
 心眼を開かれた跡見学校の創始者である跡見花蹊女史の日記に種々の見仏体験が記されています。跡見花蹊女史は83歳の時初めて笹本戒浄上人に出会われ、翌月には見仏されています。後年には宮中にも自由に出入りされ、大正 12年には新刊の『人生の帰趣』を貞明皇后陛下に献上されました。こうした体験から「いともいとも 大いなるかな天地に みち足らひたる 大みすかたの」との三昧体験のお歌が生まれました。

念仏と法話の会

志村念覚

◇日 時:5月28日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:20名

 午前中はお念仏と礼拝儀、午後は大南園主から先月(四月)の御法話の釈尊出世の本懐のお話に引き続き、仏知見の霊相と題して開示悟入についての御法話をいただきました。 

〈御法話〉

仏知見の霊相 ―開示悟入について―

はじめに
 四月の例会では釈尊誕生を祝う花まつりの時季に因んで、釈尊がこの世にお生まれになった理由について『法華経』方便品第二に「釈尊出世の本懐は一大事因縁をもっての故なり」と記されていることをお話した。大変な出来事に用いられる「一大事」ということばが歴史的に最初に用いられたのは法華経であり、この経に一大事因縁として説かれる開示悟入について、天台智顗の法華経の解釈、さらに弁栄聖者の説く一大事因縁と開示悟入観を見ていきたい。
一 釈尊出世の本懐と法華経
 六世紀の中国における天台宗の開祖で第二の釈尊ともいわれた天台智顗は『法華玄義』第二下に「法華は衆経を総括して、ことここに極る。仏出世の本意なり。諸の教法の指帰なり。」(天台智顗『法華玄義』第二下)と説いている。これは釈尊のさとりから涅槃までの教えを五時に分け、華厳時(釈尊さとりの教え)、阿含時(さとり後十二年の小乗の教え)、方等時(阿含後十六年の大乗の教え)、般若時(方等後十四年間の智慧の教え)は、みな法華時(涅槃までの八年の教えで涅槃直前には涅槃経を説く)に導くための教えとする。法華経以前の諸経は方便であり仮の教えであって法華経への手引きに過ぎないとし、故に法華を如来出世の本懐経としているのである。
二 天台の一大事因縁についての聖者の説明
 弁栄聖者はこの「一大事因縁」について哲人としての仏陀の教え(聖道=知力の信仰)と大宗教家としての仏陀の教え(宗教=情感の信仰)に分けて説明している。『光明の生活』三九七頁の「仏陀世眼が指導の目的」において天台智顗『法華文句』第四上を引いて天台宗の教えは聖道の立場として哲学的に捉えて一大事因縁を説明し、仏知見について開示悟入の四位は、十住、十行、十回向、十地の四十位をさらに配して膨大な階位を昇る聖道の困難な修行の先に行きつく境地とし、それが通仏教としても捉えられている現状を指摘している。
三 仏知見の開示悟入 ―仏の唯一の偉大な目的と仕事―
(1)通仏教の仏知見
 『佛教語大辞典』(中村元著)の「仏知見」の項には、「タターガタ・ジュニャーナ・ダルシャナ(Tathāgata-jñāna-darśana)、仏の智にもとづく自覚の意か。仏知見という成語は大乗経典思想上、極めて重要であるが、学的に研究、解明されていない。その本来の意義は未知である。ただ菩薩の智である般若とそれに基づく方便とに対して対応的に使用されている事実だけは明らかである。」と記され、通仏教として仏知見は大乗経典において極めて重要であるにもかかわらず、その意義は学問的に解明されていない未知の状態であるという。ただ仏になる前の菩薩の智慧と方便の中で対応して用いられる事実だけが明らかにされているというのである。
(2)弁栄聖者の説く仏知見
 前項で仏知見の意義について解明されていないことを見てきた。しかし、それを明らかにしたのが弁栄聖者である。聖者は仏知見を理屈で理解するのではなく体験により理解するものと捉えている。また、先に天台の一大事因縁において哲人としての仏陀の説く仏知見の開示悟入は非常に困難な道(聖道)であると見てきた。しかしもう一方の大宗教家としての仏陀の説く仏知見は易行の仏知見であると説いているのである。『光明の生活』三八九頁「大宗教家としての仏陀」において、「大宗教家としての仏陀は世眼を以て衆生に云何に指導の光を与え給える哉。宗教的方面より指導し給うことは、聖道的に汝等自性清浄を発見せよと教給わず、宇宙に大なる大光明者を信念せよ、衆生は悉く大なる如来の子たる仏性の卵を具ている、報身如来の大光明に摂化せらるる時は必ず大なる親と親近しただ親を知見するのみにあらず、親の全き如く保養せらるべしと。」と、聖道の修行により自分たちの力でさとるのではなく、宇宙法界の中心である無量光如来(大ミオヤ)を信じ念仏することにより報身如来の大光明に摂化せられさとりの境地に導かれると説いているのである。
(3)天台の説く開示悟入
 開示悟入とは極く簡単にいえば、仏の智慧を凡夫に教え(開)、示し(示)、理解させ(悟)、さとらせる(入)ことである。
開示悟入は仏の知見に達する浅深の程度、段階を示したものであり、出世本懐の四特質を要約したもので、天台宗の説明によると以下の通りである。
「開」 開発の意、衆生の無明(理に迷う心)を打ち破り、如来蔵(本質的に持つ真如)を開き、実相の理を見ること。
「示」 顕示の意、知見の体が顕われ、現象に即して実相の理を見ることができ、事々物々に法界の徳があらわれること。
「悟」 覚悟の意、現象(事)と理(本体)とが融け合ってすべてをありのままに悟ること。
「入」 證入の意、事理が融け合って法体と一になり、自由自在に智慧の海に流れ入ること。
以上は天台の説く開示悟入であるが、哲人としての仏陀が説く衆生に仏知見を開示悟入させる方法である。これに対して、弁栄聖者は大宗教家としての仏陀が説かれた方法として宇宙法界の中心である無量光如来を信念してこの如来の力によって開示悟入する方法を説いており、次に詳しく見ていきたい。
四 仏知見の霊相 ―弁栄聖者の「開示悟入」観―
(『光明の生活』初版四〇〇頁)
弁栄聖者は仏知見開示悟入について、「仏知見開示とは即ち如来の実在を啓示さるる相にて、基教に啓示、また黙示とも云い、また聖霊感応の如き、大にしては仏陀が無明を滅し、正覚の光明現じたる時に舎那円満の如来が法身の菩薩等の為に無比荘厳の相を現じて無量の珍宝を以て荘厳せる蓮華蔵世界に在すを見給う如き、(中略)かかるを総て啓示とす。今暫らく開示悟入の階位を明す。」と、仏知見開示について如来の実在をあらわし示すことを啓示としてその諸相を説いている。

(1)開(感覚的啓示)
 開とは、如来の実在を知見する時の先駆的な顕現の仕方で、感覚的啓示を特色とする。感覚的とは三昧定中若しくは夢定中に色声香味等の五妙感の明相が現われる啓示である。跡見学園女子大学の創立者である跡見花蹊の『跡見花蹊日記』には三昧定中と夢定中に明相が現われる三昧体験が記されており、当該女史はこの境地に達していたことが窺える。
(2)示(写象的啓示)
 示とは、妙色荘厳等を感見する感覚的啓示の次の段階で、智慧と慈悲等の如来が内包する聖徳を衆生に示すことで写象(映す・写す)的啓示を特色とする。また聖者は、「『観経』に、仏身を観る者は仏心を見る、仏心とは大慈悲是なり、無縁の慈を以て諸の衆生を(光明により)摂(取)す等、また如来の大円鏡智等の四智等を示さるを仏智慧が衆生の心中に顕現することを示とす。」と説いている。
岡潔は『無邊光』(講談社版)の「まえがき―無辺光と人類」において、「無差別智には四種類ある。大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智がこれである。」と、四智のことを無差別智と呼び、如来の光明であり、無辺光であるという。そして「人の肉体はまるで無差別智の大海の中の操り人形のようなものである。」と述べている。如来の御心が超感覚的なかたちで示されるのである。
(3)悟(法身理想啓示)
 悟とは、如来の三身の実在と霊能とを知見できることで感覚的啓示は応身、写象的啓示は報身の智慧と慈悲、悟に証入すれば法身に契合する形式的合一が得られ、これを法身理想啓示という。
善導大師の弟子である懐感が師に浄土教に対する様々な疑問を問うて記した『群疑論』に、「問曰念仏三昧所見の仏は三身の中には何の身を見るとせん。釈曰通じて念仏三昧を論ずれば、三身ともに念ず、無相の念仏三昧を得んとならば報化身の仏を念ずべしと、又修観の者麁より細に至て先ず身色の観を為し後に報身を観ずべし、是れ修学の次第なりと。」と、法身の啓示を受けるための方法を『群疑論』の教えから聖者は示している。
また聖者は禅宗について自性清浄法身を直接目標として修行し、自己の本性(仏性)に目覚め(見性)、真の自己を直覚体験することで仏(覚者、仏陀)の悟りと安心の境地を達成される(成仏)という。つまり悟の位を目標とすることから入の位までには行きつかず、その限界を指摘している。
(4)入
 入とは、如来の法体に證入することで如来蔵を開く時は本覚の如来は我父であり、我は始覚の子(仏子)と認識する法身の最深の面と合一できるようになり、三身四智の仏眼の境界である。
おわりに
 大哲人たる仏陀は聖道としては真理に悟達することをめざし、大宗教家たる仏陀は今現に法界宮の中心本尊たる無量光如来の大ミオヤを信念して霊の復活をめざせと教導する。両者は同一の終局に帰するのである。我々はこの大宗教家たる仏陀の教えに直参する光明主義の御教えを実践し、仏陀から弁栄聖者に連なる出世の本懐の一大事因縁たる仏知見の開示悟入に精進したい。