関東支部 平成29年3月

関東支部報告

一行三昧の会

         

鎌尾美津江

◇日 時:1月8日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一氏
◇参加者:16名

 大南園主から次のような新年のご挨拶がありました。
 近年、曹洞宗の二人の禅僧による『仏教3.0』という活動や著作があり関心を集めています。禅では今まで只管打坐とただ坐ればいいという教えでしたが、先ずその思想や哲学を理解することを主張しています。まさに佐々木講師の一行三昧会のお話も念仏とは何なのか、お念仏をしたらどう変わっていくのかという「アップデートする仏教」「アップデートする念仏」を謳っています。これからの念仏はどうあるべきか。皆さんと一緒に考え実践していきましょう。  

〈ご講話〉 起行の用心 その6 五根五力(1)

転依(てんね)
 今までは「念仏はなぜ有り難いのか」という本論に入る前の話をしてきましたが、今回よりいよいよ実践のノウハウを学んでいきます。全体像は添付(次号に掲載)の起行の用心のチャートをご参照下さい。念仏修行の全行程を通覧しますと「往生の一歩一歩、一齣一齣の方法と転依の様子である」ともいえようかと思います。往生とは娑婆から極楽へというような「場所の移動」ではなく、「状態の変化」すなわち転依の様子を言います。転依とは通仏教的な用語で、心の有り様が変化して涅槃を得たり智慧を得たりすることです。念仏により空を体験することで精神が聖き心によみがえり涅槃や菩提があらわれる大変化が起こるのです。
五根五力
 先ず「不断光」に照らされると、意志が変化して仏道修行が始まります。弁栄聖者の「意志」とは「行為に直結する身体の準備」です。不断光の意志が霊化するとは修行の行為を起こすことなのです。必ず行為に結びついています。
次に「難思光」のお導きで喚起位となります。弥陀を憶念して初めて弥陀の名を呼ぶことに意味があります。弥陀を心にお慕いしながら称名することが大切です。
五根と五力の関係は分かりづらいと思いますが、根は養分をとって努力している段階で外からの刺激であり、力はその努力で内在的な力に成長していく課程です。根と力は、信根からすぐ信力になるという隣りにある関係ではなくて、四科の慧根まで行ってから五科の信力が生まれるというのが真相だろうと解釈しています。

①信根、信力
 念仏の教えを信じ、如来の実在を信じて疑わない。「実在不疑」(『佐々木為興上人遺文集』)
信根とは如来の真理を聞いて如来の恩寵を被るときは、必ず自己は解脱救霊せられることを信じて疑わず。如来はわが親にて我はその子たりと信じて、この信が基礎となり信の根底が確乎として、またこの信を発達せんがために次の精進根となる。(『人生の帰趣』)
信じることがスタートですが、信はひとたび仏道に入れば、もはや不要になるというものではなく、仏道全体を支え続け慧に向かって昇華し究竟していく通奏低音の如くです。
②精進根、精進力
 どんどんお念仏を精進します。「切磋琢磨」(『佐々木為興上人遺文集』)
精進根。精進は信仰を増進せんがための勤勉である。たとえば米に糠あれば力めて搗くときは精白となる如く、一心専精に不断に大光明者を念じて勇猛精進して時々心々連絡し専注して進むときは霊性ますます発達す。(『人生の帰趣』)
尚、五根五力のご指導を良く理解するには唯識で学ぶ「心所の知識が手掛りになるというお話がありましたが、今は省略します。

念仏と法話の会

志村念覚

◇日 時:1月15日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:26名

 今年はじめての念仏と法話の会ですが、新しい参加者がひとり加わり会の後の茶話会にて自己紹介をいただきました。横浜に住む福祉関係の仕事をしている若い男性で、弁栄聖者の御教えと念仏修行に興味を持たれて参加されたそうです。光友の輪の広がりに感謝いたします。合掌

〈御法話〉

一 はじめに
 富士山は日本のどこでも眺めることはできないが、お月様は日本のみならず地球上のどの地域からも眺めることができる。法然上人の念仏三昧の心境は「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人のこころにぞすむ」という「月かげの歌」となって結実し、月(仏)と人間の心との感応道交の世界を歌っている。この仏と私が一つになった世界について、法然上人の念仏三昧と弁栄聖者の説く帰命の三位から見ていきたい。
二 法然上人の念仏三昧
 法然上人の『選択本願念仏集』の最終章(第十六章)には彼の師である善導大師の『観経疏』から『観無量寿経』の説く念仏三昧について理解した「念仏の行、水月を感じて、昇降を得たり」との文が記されている。これについて前園主の河波定昌上人は優れた解釈を示している。月は「仏」であり水は「私の心」のことであるが、この関係を二つの側面からとらえ、「水、月を感じて昇ることを得たり」と「月、水を感じて降ることを得たり」の二面が表裏相即して一つの出来事として展開していると説いているのである。それは、月を念う時、その念う私の心(=水)がいつの間にか天上の月と一体になっているともいえ、また天上の月がいつの間にか私の心(=水)の中に宿り、現前しているとも考えられるという。そして、「南無阿弥陀仏」において、月(阿弥陀仏)と心(南無)が一つになった一如の世界が現前していると法然上人の念仏三昧の境地をとらえている。(河波昌『光の現象学』五一七頁)
三 帰命の三位
 昨年九月の念仏の会では弁栄聖者の『観無量寿経』の解説の中に説かれた「南無の二義」についてお話した。「南無」は「心からより所にする、心から頭をさげる、心からお願いをする」などの意味であるが、それには我を救いたまえという「救我」(最高福)と我を度したまえという「度我」(最高徳)の二義がある。「帰命」は南無と同じ意味であるが、弁栄聖者は情の信仰に、帰命、融合、安住の三位があり、「帰命は感情、融合は心情、安立(住)は情操に配す。」(『光明の生活』三四二頁)と説いている。帰命は「情の信仰の初位で感情のことをいい、これに浅深がある。初期の如来と自己との親密なる情が融け合わざる状態から、如来に自己の全身全霊を投じて我は如来の有なりとの金剛の如くに結晶したる感情に至った状態までをいう。」とする。また「入我我入の状態に至る順序として初め感情の門を通すべきである。」とあるように感情のはたらきを重視し、初めは帰命(感情)の深まりから、融合(心情)、安住(情操)に向かう情の信仰の深まりを霊的結婚に譬て説いている。

帰命(感情)
 帰命という信仰の感情は、初めは憧れのような感情から「只々如来の中に我を投じ全身全幅を投じて我は如来の有なりと霊的結婚の目的を達せんとの金剛の如く堅く結晶したる感情を帰命という。」(『炎王光』三〇頁)というように、霊的結婚に向かう感情にまで信仰の深まりは進化する。
融合(心情)
 融合について、「華燭の礼を挙るは信仰の中心。人の信仰と如来の恩寵との親密なる関係を融合とす。」(『炎王光』三五頁)とし、また「神人交感神秘の妙用によって霊き信仰の心は生まれて真の仏子となることが融合の中心にして、その後は常に如来と共に在ることを得。これを心情の信仰融合とす。」(『光明の生活』三四八頁)とある。華燭の礼とは結婚式のことであり、帰命(感情)が深まった結果として人間ならば結婚した時に当り、如来と融け合い、入我我入の霊感を得たのが融合(心情)の信仰である。
安住(情操)
 安住について、「我は如来と離るるなき霊にて、霊の我が如来大我の中に安立して(霊の)生命である。すでにここに到れば身は人界に在れども神は如来光明中に(安)住す。」(『光明の生活』三四八頁)とあるように、信仰が更に深まれば安住(情操)の信仰となる。安心して何ものをも恐れず、如来の懐に安住する状態であり、結婚した如来を慕いお仕えする貞操感の如きものが情操である。
四 おわりに
 先に述べたように南無は阿弥陀仏に帰命することであり、南無阿弥陀仏により仏と私が一体となることをめざす信仰が光明主義である。南無の感情から心情、情操へと情の信仰の深まるこの気持ちを理解することが起行の用心であり、この気持ちで南無阿弥陀仏を称えることに尽きるのであります。