光明主義と今を生きる女性 「河波先生との思い出」

山本 サチ子

 河波上人を偲んで3回目の祥月命日(4月3日)を前に3月17日(日)穏やかな春の日差しの日、光明園にて現園主の大南龍昇上人を導師に、河波上人のご回向をいたしました。三回忌が厳かに執り行われ、お元気だった頃の河波先生を偲びました。

〈在りし日の河波先生〉

 学生時代、私は河波先生から「ハイデッガー」や「宮沢賢治」を勉強するようアドバイスを受けました。ハイデッガーについては、かじってはみたものの歯が立たなくて河波先生に「よく理解出来ません」と何度も話したことがあります。宮沢賢治については、解らないままに分かっていたと自分なりに思い込んでいます。私が解りませんと先生に話した時は、先生はその答えではなくいつもそれならばと次にこの本を読んでみればいいでしょう……と資料や宮沢賢治に関する書物を提示してくださいました。中でも『法華経』や賢治に関する書物の数々は私にとってそれがどんなに役にたったことかしれません。
 河波先生は若い頃からお念仏に集中しておられ、老年期になられてからはより一層念仏が深まっているご様子でした。私は光明園での念仏の途中に河波先生に視線を向けた時、先生のお念仏なさるお姿を拝受すると、あっ…と驚きました。まさにいま如来(霊)が乗り移っているのであろうと思わせるお姿だったのです。先生のお姿から念仏に対する取り組む姿勢を学び、その時私はもう一度しきりなおさなければいけないと念仏への思いを強くしたものです。
 或る日、私はアポなしで先生のお宅を訪ねたことがあります。たまたま河波先生のご自宅近くまできていました。すぐ側だからお邪魔したいと思いました。先生はお留守でも奥様がいらっしゃると勝手に思いながら、チャイムを鳴らしていました。「ハイ」と言う返事がしたら、お部屋から先生がすぐに玄関まで出ていらっしゃいました。
先生:「あっ! いらっしゃい」、
私 :「近くまで来たのでお訪ねしました。」と語る私に先生は
先生:「明日ドイツに出発するんです。家内が準備の買い物に出てます。」
私 :「明日、出発とは知らず申し訳ありません。近くまで来たので……」
先生:「このお菓子とてもおいしいのよ!こんなところで悪いけどコーヒー飲んで…」と私にしきりに菓子と一緒に薦めます。
 先生はカップにこぼれるほどコーヒーを注いで下さいました。またお帰りになられて落ち着いた頃に参ります。と帰ろうとする私に…
先生:「では、京都のお菓子美味しいからこれもって帰って食べてください」
と言います。勝手な思いで先生宅を訪問したそんな私に先生は玄関まで追いかけてきてお菓子まで持たせて下さったあの優しさがもったいなく、ありがたくて夢のような思い出です。その晩、昼間買い物で留守したと言って奥様が電話を下さいました。数日後、奥様と私はお茶とお菓子を食べながら今頃先生ドイツで沢山のスケジュールをこなしていらっしゃるのでしょうね! と先生の噂話をして楽しみました。

〈いのちについて〉

 
 かつて、河波先生は「いのち」についてのタイトルで原稿を書いておられたので私はそのコピーをいただきました。原稿の一部です。
 「いのち」とは、決して固定化しとどまるものではなく、どこまでも働き発展してゆくところのものでなければなりません。「いのち」については、さきに「根源的にはたらくもの」として定義しましたが、その根源的にはたらく当体とは大乗仏教における阿弥陀仏(すなわち無量寿仏Amitāyus)に在し、またキリスト教における神(すなわちいのちZOE)「ヨハネ伝」そのものであったのです。この根源者(阿弥陀仏、あるいは神)へ還帰することは、限りなきヒューマニズムの自己脱却であり、またそれの完成でもあるのです。「南無阿弥陀仏」とはまさにそのことを意味しているのです。
 私は何度もこの原稿を熟読しました。凡人の私には本当の意味で河波先生が伝授したかったことを理解出来ていないと思いますが、この原稿は「いのち」に対する客観的な考察であると私は受け止めています。ただ、まったく意味合いは違うでしょうが私はもうひとつの観点からある意味で「いのち」についてそのいのちが消える時の様子をいつも考えるのです。私は自分の祖母が亡くなるときの事をつい考えてしまいます。それは人が臨終に際して今消えていく「いのち」です。私の祖母は私が生まれて間もなく亡くなりました。その日、姉は十二歳でした。祖母は姉を枕元に呼び「今日、もうすぐばあちゃんは死ぬから弘ちゃん、今日はばあちゃんの側を離れずそばにいてね」と語り、姉の手を握り締めたのです。「そんなことない、ばあちゃん、しっかりして」と姉が言うと、ばあちゃんは亡くなった娘の名を呼び、それから念仏を称え始めました。しばらくして「弘ちゃん!お母さんを呼んできてちょうだい。」と言い、また念仏を称え続けました。急いで母を呼んで来たときは微かな声で「南無阿弥陀仏」と称えていたそうです。その日、住職である父は檀家に行っていました。姉は家の前の畑にいた母を呼びに行く途中に“ばあちゃん死んじゃ嫌だ。仏さま、どうかばあちゃんを助けてください”と何度も仏様に祈りお願いしたそうです。ばあちゃんは念仏を称えて、最初は大きな声の念仏でした。時間が少し経過すると次第にか細い声の念仏となり、家族に見守られながらその言葉通りにその日の数時間後に亡くなりました。兄弟姉妹の多い姉は祖母に大変可愛がってもらい母よりも相談しやすくて大好きな、大好きなばあちゃんだったのです。

〈心の安らぎ〉

 個人的なことではありますが、私はこのところ短期間に姉妹を失っています。元は兄弟姉妹八人であったものが今は半分の数になり、元気でいる兄弟姉妹は二人となりました。この悲しい現実を乗り越えようと光明主義のこれまでの教えやお上人様方のお話し等を思い出し、毎日念仏を称えさせて頂いています。念仏を称えることで「こころ」がとても安らぎます。そう思い私は日常念仏に励んでいます。そしてまた、河波先生が生涯をかけて説き続けてくださった光明主義のともしびの火を消さぬよう私も裏方の力として自分なりの方法で光明主義を支えていきたいと思います。5月は山崎弁栄聖者の百回忌の法要を迎えます。頑張り成功させなければならない。河波定昌上人の思い出と共に帰りの車中こんな思いを巡らせながら、私は家路に着きました。

合掌