光明主義と今を生きる女性 「母親の年齢に近づいて思うこと」

洋子・スコット(アメリカ在住)

 私は一月号の「ひかり」誌に今を生きる女性のページ、山本サチ子著「法要」の中に登場する、山本サチ子の姪の洋子・スコットと申します。現在、アメリカのロスアンゼルスに在住しています。
 私は叔母から海外で国際色豊かに活躍している女性に是非、「今を生きる女性」の欄に原稿を書いてほしいとの依頼を受けました。母が亡くなってから今日まで自分の思いは多々あります。これまでの生い立ちや心境を織り込みながら綴ってみたいと思います。
 昭和三十五年、私は、神奈川県川崎市にて生まれ育ちました。昭和四十年代の記憶には新聞に日本列島改造論という見出しがあったのを覚えております。まだ幼かったけれど振り返ってみるとあの頃が日本は高度経済成長期の真っ只中であったのだなあと思います。
 私の家は、決して裕福ではなく川崎の小さなアパートの一部屋で両親と兄の四人暮らしでした。私たち兄妹は両親からお金では買えない愛情をたっぷりと注がれて育ち、幼い頃の私は自分の意見をはっきりと言える子供であったと思います。多分はっきりしすぎて、周りから見たら何ておませな子供なんだろうと思われていたはずです。ただ、これは育った環境というよりは生まれ持った性格なのだと思います。今でも歳を取ってもそれほど変わってはおりません。
 私の母は昭和九年、福島県にある感應寺というお寺の三女として生まれました。上には姉が二人、下には弟三人、と妹三人の大家族の中で育ちました。家計は常に火の車で、特に戦時中は食料も乏しく、大家族の生活は困難で、ほぼ自給自足だったそうです。母は小さい時から兄弟の子守と田んぼや畑に追われ、あまり近所の友達と遊ぶこともできなかったそうです。当然高等教育も受けられず、特に青春の思い出等もなく、それでも三歳年上の姉と田んぼや畑を耕している時は、本当に楽しかったとよく話しをしてました。父も母親と同じく福島県出身で川崎に仕事を見つけ家庭を持ったそうです。ちなみに父は十代でクリスチャンとなり、以後神さまを心から信じておりますが、仏さまを尊ぶことも決して忘れてはおりません。
 お寺の娘とクリスチャンの父親に育てられた兄と私は、よほど礼儀正しくて、品行方正な子供に育ったのではないかと想像される方も多いかもしれませんが、信仰を持っている家の人間が必ずしも聖人ではなく、我が家も例外ではありませんでした。荒波に飲まれそうな危機がなんども起こりました。父親はお酒が大好きで、酒に酔っては母に無理を言い、両親は常に口論となり、家庭内暴力もありました。子供の頃、泣いている母親の背中を見るたびに胸が張り裂けるような気持ちになりました。
 私が大きくなったら私は絶対に母親のような弱い人にはなりたくないと思うようになりました。またもっと知らない世界をみてみたい、もっともっと自分を磨き男性とも対等な立場で物事を考え、自分の意見を伝えられるような大人になりたいと思いはじめました。
 私は専門学校を卒業して、東京の商社に勤めることになり、その五年後に将来の夫となるアメリカ人の「アラン」と出会い結婚しアメリカの「ロスアンゼルス」に移住することになりました。もちろん家族みんなの祝福で簡単に結婚したわけではありません。両親の大反対を押し切っての結婚でした。頑固な父親には親子の縁を切るとまで言われましたが、私も若気の至りというのでしょうか縁を切られることも真剣に取らず、母親を泣かせてしまいました。 
 さらに父親には「病弱な母親を捨ててまでアメリカに行くのならもう日本には帰ってくるな」とまでいわれ、私も泣きながらアメリカに渡りました。両親から愛情をたっぷりかけられ、自由奔放に育ててもらったにもかかわらず、私は自分の夢を追いかけることで頭がいっぱいでした。両親に対して振り返る余裕もありませんでした。本当に若さゆえの行動だったと思います。
 それでも母親は陰ながら私を支えてくれ、応援してくれました。

アメリカへ渡って

 渡米後、時間はかかりましたが、それでも父親からも祝福を得られ幸いにも二人の子供に恵まれ、自分のキャリアも持つことができました。おかげさまで今ではそれなりの役職もいただき、振り返ればこの三十年間私は家庭と仕事の両立でがむしゃらに頑張ってきました。強くなりたいと思っていた私が気がついたら、しっかりと強くなっておりました(笑)。ただ、ここまで来るには決してたやすいことではなく、数多くの失敗や、苦い思いを何度も経験しました。でも失敗が多かった分、そこから学ぶことも多く、今ではその経験を生かして前に進むことも恐れなくなりました。もちろん、盲目に突っ走ることはしなくなりました。また幸せの分だけ両親への罪悪感というか、私のとった行動への後悔が常に脳裏にありました。

母が倒れてから

 また全てがここまで順調にきたわけではありません。十年前には母が脳梗塞で倒れたり、主人の会社が多額の借金を抱え倒産し、家も手放すことになり誰にも相談できず悩んだ時期もありました。
 母親の介護は父が中心となり兄夫妻、その孫達も時間のある限り協力をしてくれました。三年ほど前から母親の認知症が進み私も可能な限り帰国し介護のお手伝いをさせてもらいました。実際、九十歳近い父親が母親の面倒を見ているのを見ると本当に胸が痛く、何度会社を辞めて母親の介護をしたいと思ったかわかりません。その母も昨年八十三歳で寿命を全うし他界しました。この一年、母親のことを思い出しては涙が出て、悲しみから未だ抜け出すことが出来ません。多分私が死ぬまでこの悲しみは消えないんだなと思います。時間はいつか悲しみを和らげてはくれるかもしれませんが、決して母親への思い、感謝は薄れることはなく、それどころか大きくなるばかりなのです。
 私が両親の反対を押し切って結婚した時、母は今の私の年くらいで、今更ながらですが、母も若かったんだなと思いました。母は二十歳を過ぎて福島から川崎へ上京し結婚して家庭を持ちました。その後の人生は全て家族のため。いったい自分のやりたかった夢なんてあったんだろうかと思います。それとも母は自分ができなかったことを私に重ねて、私を通して遠く他の世界を見ていたんでしょうか? そう思うと、今まで私は自分一人で頑張ってきたような勘違いをしていただけで、実は周りからずっと守られて、支えられてきたんじゃないかと思うようになりました。私の生きてきた人生、後悔も沢山あります。できることなら子供に戻ってもっと親との時間を大切にしたい、そして、親を労いたい。けれども時間を巻き戻すことはできないのです。
 今やっと私も母親の年齢に少し近づき、今後は「一切皆苦」、人生はそんな思い通りにはならない、「諸行無常」必要以上の執着は捨て、「諸法無我」自分は生かされているんだと感謝し、安らかな心を持って人生後半を生きたいと願うばかりの心境です。異国の地でこれからも様々な困難に出会うでしょう。けれど私はどんな時にも念仏を忘れずに今後の人生をたくましく生きて行くつもりです。

合掌