光明主義と今を生きる女性 私を変えた一冊の本

アメリカ・インディアンへの思い

植西 武子

 我が家の玄関からリヴィング・ルームにかけてインディアン・グッズが並んでいる。訪れて来た人は皆、「何故、こんなにインディアンのものがあるんですか。」と訝る。中にはそれがインディアンのものとさえも理解できない人もいる。何か、グロテスクなものと感じている人さえいる。それは当然のことだと思う。
 身内でさえ、大笑いされたことがある。二十数年前、停年退職した夏に、ニューヨーク在住だった妹宅で一夏を過ごした。或る日、貿易センター・ビル内の店で高さ40センチほどのインディアン(多分、酋長と思われる)の胸像を見つけ、購入した。それを見た妹の夫に「よくも、こんな物を買ったものだ。」と大笑いされた。それが誰しも思う普通の感覚だと思う。
 私が何故、こんなにインディアンに拘るのか。それは「私を変えた一冊の本」の存在である。そのタイトルは「THE WOLF IS MY BROTHER」である。このウルフとはオオカミのことでなく、インディアンの青年の呼び名である。
 これは今を遡ること半世紀前の遙かなる昔の話である。一夏をテキサス大学に逗留し、語学研修に明け暮れていた。宿題に追われ、徹夜することも多かったが、今振り返って、人生で一番輝いていた時代だったと懐かしく思う。
 その時のある授業でブックリポートとして課せられたのがこの本であった。僅か144ページの単行本であったが、固有名詞や希有な動植物が登場し、単語調べに時間を要し、焦りながら徹夜して読んだことを覚えている。
 これは一人の白人青年と一人のインディアンの青年が毎日、リザヴェーションの垣根越しに出会いを重ねる内に、次第に相手に惹かれ、相互理解を深めていくという物語である。
 私の幼い頃、それは戦後間もない頃であったが疎開先の田舎町で、唯一の娯楽は映画鑑賞であった。その内容は何故かアメリカ・インディアンものが多かった。当時のそれは人の頭皮を剥ぐと言う残酷な場面や、近代とはほど遠い暮らしぶりという描き方をされていた。そのため野蛮な民族として私の記憶の中に止まっていた。
 ところが、この本に巡り会って、アメリカ・インディアンへの見方が180度転換した。彼等に関する本を読むにつけ、彼等の思想、人生観、死生観に触れ、その偉大さ、奧深さ、賢さに感じ入ることが多い。インディアン・カラーの象徴である水色と茶色は空の色と大地の色を意味していることからも、彼等の生活そのものは自然と共にあったのである。人間としての賢さは現代人の我々のそれを遙かに凌駕している。その根底には深い哲学が宿っているのである。
 後から来た白人達に、文明の力で追いやられ、面々として築いてきた自分達の故郷を追われ、今も尚、その差別が払拭されていない現状の下にあると思う。
彼等の存在がアフリカ系黒人の解放にも繋がったとも言われている。彼等はどこから来て、何処に行こうとしているのか。そのルーツは定かではない。
 しかし、彼等の生き様、彼等の思想、彼等の歴史の中に深く、敬虔なsomething greatが宿っているのである。

 私は在職中に奇しくも、貴重な経験をした。数年は学校現場を離れて教育委員会に在籍し、教科が英語であったため、国際交流関係で活動した。当時の教育長が敏腕であったため、全国に先駆けての先進的な活動の機会に恵まれた。
その一環としてワシントン州立大学と提携して教育交流プログラムを作成し、毎年相互訪問して、セミナーを開催していた。
 或る年の秋に訪問した時のことである。日曜日にポトマック川の川下りが計画された。大きな船をチャーターしての予期せぬ素晴らしい旅であった。観光地でないために、両岸の景色は野生そのもの、カモシカ、野ウサギ、見たこともない野生の動物が両岸から交互に挨拶に現れ、私達を喜ばせてくれた。暫くして、突然にその船は雑草が生い茂る山肌に接岸した。一苦労して上陸すると、そこは人跡未踏と言えるような未開の山だった。「何でこんな所に?」と訝りながら進んでいくと、何とそこにインディアンのティーピー(居住のために張るテントのようなもの)の跡が残されていた。これに気づいた時、誰よりも内心、喜んだのは私であった。アメリカ人のサプライズと言えるこの素敵な心配りに深く、深く感激した。多分日本からの他のメンバーは、今も何故こんなところに案内されたかと思っておられることでしょう。
 私はそこに跪きたい思いで心の中で合掌した。そして彼等に心を馳せた。懐かしいような、いとおしいような気持ちに満たされた。
 私の寝室のベッドの壁に一枚の小さな額が掛かっている。その中の絵はとてもとても淋しい絵である。それはインディアンの老婆が月光を浴びて横たわっている絵である。
 インディアンには厳しい掟があるのである。それは年老いて或る年齢に達すると山に捨てられるのである。息子は老婆を背負って奥山深くに入り、食べ物も与えずに別れを告げるのである。この絵はワシントン州立大のDrリードが額に入れて、私に下さったものである。これを貰った時は「あれっ」と思った。さすがの私も最初は少し、たじろいだ。そして訝った。「この絵は何を意味するのだろう。」「Drリードは何を言いたかったのか」
 今はもう聴くすべもない。しかし、私は毎晩、寝る前にこの絵に合掌し、お十念をする。そして思う。「充実した人生を送り、静かな終焉を迎えたい。」と。この老婆も心穏やかにその終焉を迎えたのであろうと。…
 私の心は今もあの広大なアメリカの大地を駆け巡る。果てしないアリゾナの原野を、鬱蒼と茂るレッド・ウッドの森を、牛馬が悠然と草を食む穏やかな牧場を。
 そして思う。嘗てはそこにあったアメリカ・インディアンの人生を。彼等の生き様を。彼等の歴史を。
 私を変えたその一冊の本の外観は雑な紙に印刷され、今はすっかり褐色に焼け、手のひらに乗るような実に粗末な本である。しかし、その内容は、私に限り無い大きな夢と果てしない心の旅とそして人間存在の大きな意味を与えてくれた。この本に感謝しつつ、願わくば、私もこの本にあやかりたいと思う。

合掌