光明主義と今を生きる女性 田中木叉先生―おぼろ月夜のご説法―

袮次金 文子

「先生と静岡光明会」
 昭和二十二年、静岡光明会が発足して間もない頃、先生が初めて布教に来て下さいました。当時は各家庭を訪問して、四、五名の皆様方と膝をつき合わせてのご説法でした。また、小学校の父兄の皆様に講演をされたこともありました。
 その二、三年後からは法伝寺を会場として一同が集まり、別時念仏が盛んに行われるようになりました。先生は静岡に一週間も滞在してご指導下さったこともありました。
 藤田さだ様は先生を師と仰ぎ、先生も藤田様を愛弟子のように接しておられるお姿がとても印象的でした。思い出は山のようにありますが、たった一度忘れられない出来事があります。
「先生のお宅をお訪ねして」
 それは昭和四十二年の春。私は仕事が速く終わり、急に先生にお会いしたいと思い立ち、白金台のお宅にと出かけたのです。「白金台、般若苑」を目当てに行きましたが、道に迷い、一時間以上歩き回り、捜しましたが、だめでした。
 あたりは暗くなり始め、急に心細くなり、引き返そうと思いながら、とぼとぼと歩いていました。ふと前方を見ると、うす闇の中に人影が見えたのです。あの方にお尋ねしてだめなら帰ろうと思い近づいていきました。「あの-」と声を掛けましたら、振り向いた方が、なんと先生の奥様でした。家の前に立っていらっしゃったのです。この時の驚きと嬉しかったことは五十年過ぎても鮮明に蘇ってきます。
 二階に通され、先生と奥様と私がこの出会いの不思議さで話が盛り上がっていますと、先生が突然、大きな声で「これは愉快だ。これは愉快だ。」と大笑いされ、奥様まで一緒に笑われました。私は突然お伺いした申し訳なさと、お会いできた嬉しさとで複雑な気持ちで座っていました。暫くして、そろそろお暇しようかと、思っていましたら、先生が「さあ、送りましょう。」と立ち上がられたのにまた、驚き、必死に辞退しましたが、だめでした。
「おぼろ月夜のご説法」
 その時の先生は着流しに黒の三尺帯をしめられて、素足に下駄を履かれ、まるで若い書生さんのようなスタイルでした。
 小さな公園の中を通りましたが、あたりは暗くて、しかも足元は砂利道のようです。私は先生の足元が危ないと思い、近寄って先生のお袖を取り、腕組みをしてしまいました。まるで、恋人同士のように、そぞろ歩きをしたのです。
 小さな外灯がぼんやり灯り、春風が心地よく頬をなで、見上げればおぼろ月夜、まるでこの世の出来事とは思えない光景でした。先生はいろいろと話しかけて下さいました。
私「お念仏があまり好きでなく、できません。」
先生「今は駄目でも必ずできますよ。」
「馬鹿になりなさい。馬鹿は0になることです。0に100をかけてごらんなさい。0でしょ。馬鹿がいいです。」
「私達は死んで終わりではないのです。観音様となって生きるのです。」
「みなさんは利口すぎるのです。・・・みなさんはお念仏が足りないのです。・・・今のままだったら、あと五十年後には光明会はないかも知れない。・・・無くなってしまうかも・・・。」
「お念仏をなさいませ。お念仏をなさいませ。」
 このおぼろ月夜の会話は、ある時は諭すように、また、独り言のようにも聞こえました。これが先生との最後のお別れになるとは、夢にも思っていませんでした。
 お別れして、五十年の月日が過ぎましたが、「お念仏をなさいませ!」のお声は今でも耳の底にしっかりと残っています。
「聖者百回忌に向けて」
 二年後には聖者百回忌を迎えようとしています。何かお役に立ちたいと思いつつ、無力な私に何ができるのか、自問自答しています。
田中先生は、よく「ご婦人方には強い力がありますよ。」とおっしゃっていました。これを機に婦人部を立ち上げればと念じています。現状は関東支部でささやかな活動がされているようです。これが全国規模に発展すれば何よりと願います。微力ながら、残された人生、少しでもお役に立たせて頂きたいと願っています。

合掌

※田中木叉上人作詞の「光明歌集」はすばらしい本です。勇気づけられた一冊です。