光明主義と今を生きる女性 「つれづれなるままに」~ある一日の思い~

山本 サチ子

この頃のある一日を振り返ってみる。

午前の細々した家事を済ませ昼食後は散歩に出掛ける。そこで飼い猫や野良猫に出会う。この猫殿達は飼い猫か野良猫であるかが一目で解るのだ。散歩コースで最初に出会った猫殿は人から愛情を注がれて成長した猫だなと思う。この愛情豊かに育てられたと思われる猫殿は「ニャーン」と鳴きながらすり寄ってきて甘えたりするものだからこちらもつい微笑んでしまう。一方、次に出会った猫殿は私の呼び掛けにまるで忍者か侍のような警戒心を顕わにしてこちらを見るのだ。“用事が無ければ無駄な声かけは無用”という態度で構える。人を信じない。人間を怖がっている鋭い目つきだ。可愛くない猫だと思う。けれどなぜかあの鋭い目つきと構えが気にかかる。あの猫はどんな生立ちをしたのであろうか。きっと捨てられて毎日食べ物を探し今日まで生き延びてきたに違いない。私の知人が野良猫に目を掛け食事を与え、毎日優しいことばで接し育てはじめた。数カ月後、私はその猫殿に再び出会った時あっと驚いた。全身が柔らかく表情は優しく微笑んでいるのである。この時すっかり変身した知人のあの猫殿を思い出した。私はこの猫侍も空き地を我が家とするのでなく人間の手で育ててやりたいと考えたのである。しかしまだ実現に至っていない。数が多すぎるのだ。

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以前、我が家の猫殿を獣医師に診察してもらった折、その説明によると野良猫は暑さと寒さに耐えて過酷な生活をするため寿命が短いのだと聞かされ、成る程と思った。野良猫にしてみたら空き地で自由に暮らすことが良いと思っているのかどうかその胸の内は解らない。かつて我が家の猫殿が部屋で当時まだ学生であった娘にスリスリして甘えていた折、階下から自分の名を呼ぶ声がした。次の瞬間に娘の膝を蹴飛ばし階下へ一目散に駆け下りていってしまうという呆れた事情があった。そうだ猫には「義理や人情」とかはあまり関係がないのかもしれない。とそんな事を思う。ひどいことだと思うが少し羨ましくもある。私ももし義理や人情に振り回されず思いのままに生きられたら楽であるのかも知れない。けれども私は人間に生まれたからにはやはり一生、義理や人情と縁を切ることは不可能だ。これからも今までしてきたような生き方を続けていくのであろう。ときとして猫殿の自由は面倒くささがなく羨ましくさえ思ったりした。今私は定年退職をして月に数回あちこちの念仏道場や全国の神社仏閣等の名所めぐりを楽しんでいるのだ。しかしこの生活で良いのか疑問でもある。もっとけじめのある生活をして山崎弁栄聖者の御教えに沿った生活のありようを自問自答している。もう少し聖者の御教えに則った生活をせねばと今日も散歩中またまたこんな思いが脳裏を駆け巡った。……

南無阿弥陀仏。

光明会とこれからの方向

人の性格は様々であるから目標に向かって弁栄聖者の御教えを実践することはとても難しい。人が目標に向かい行動することは困難なのだが幸いなことに私達光明会の会員は光明主義という弁栄聖者の御教えの実践目標が一致しているのでやり易い。それぞれの人の事情を考慮しながら共に一歩ずつ前進させるよう努めたい。

目標

  1. 女性の会の輪を広げる
  2. 光明会員の増員への努力
  3. 光明主義の原点にかえり総合理解を深め実践化をめざす。

①の「女性の会の輪を広げる」ことは、会の元気を取り戻す。女性は少ないが仲間を増やすことを忘れず周囲の人や友人に根気よく呼びかけ行事を振興させる。特に親子別時の参加者への呼び掛けを行う。

②の「光明会員の増員への努力」では関東の場合であるがホームページからの光明会への來訪や仏教塾の方々の入会等がある。この部分を広げていきたい。以前、この会員増員の件につき会員と話し合ったことがある。その意見によれば、『呼び掛けはせずとも将来必ずや光明主義が見直され必要とされる時代が来る。今会員数が減ってもジタバタしなくともよい。』との意見があった。しかし私はジタバタしたい。何もせず時代に流されていくのを見ていたくない。少しでも策を考え実行したいと思う。あの野良猫の猫侍のような強さがほしい。自分のみの精進だけ目指すのではなく共に手を繋ぎ進みたいと思う。もっと大乗仏教の精神でありたい。どんな時にもやはり団結が必要であり共に教え学び合って進みたいと願う。おてて繋いでの子供じみた戯言と聞こえるかもしれないが所詮凡夫は弱いのでありそういう行動が不可欠であると思う。強がらず意地を張らずにもっと素直に精進していきたい。

③の「光明主義の原点にかえり総合理解を深め実践化をめざす」についてだが最近特に感じることがある。これはもちろん自分が一番しなければならないことだがもう一度光明主義の原点にかえり山崎弁栄聖者の「宗祖の皮髄」を心読し実践化に向かうことが大切だと思う。今更何を、これまでしてきたことではないか、と苦情が出るかも知れない。けれども私には弁栄聖者のもう一度「原点に戻り修行せよ」の声が聞こえる気がしてならない。風の音に耳を澄ますとつれづれなるままの今日の一日を私はこんなことを考えて歩いていた。弁栄聖者の次の詩歌を噛みしめながら…

合掌