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発熱の文 20 念仏三昧門


 受けがたき人身をうけ遇いがたき仏法にあうことを得たるの幸、人身の頭脳奥に秘める如来の子たる霊性を開発し、現在より通じて永遠不滅の生命を発得せられんことを祈り候。その霊性開発する時は絶対大霊なる無量光にして無量寿の如来と合一す。ここに於て如来は真実の父なることを悟らん。極楽は本来我故郷なることをも覚らるれ。いかにしてここに至らん。即ち是仏法なり。仏法に門多しと雖も要中の要なるものは念仏三昧門なり。念仏三昧門にまた方面多なりと雖も、口に聖名を称え意に慈悲の聖容を憶い愛慕して止まざる時は面あたり慈悲のみすがたは想念の中におがむことを得べし。行住坐臥一切の作務に拘らず憶念常に繋て忘れざる時は必ず業事成弁すべし。若し成ずる時は常に如来と共に在って離れざるの観あらん。みだと共に在らばここもまた浄土なり。弥々命終の時にはみだと共に報土に生ぜん。まことに快ならずや。頼みても頼むべき如来なり。

現代語訳

 受けることが難しい人の身を受け、出会うことが難しい仏法に出会えたことはとても幸〔なことです。〕人の頭脳の奥に秘められた如来様の子としての性である霊性を開発し、現在より〔来世まで〕通じて、永遠不滅の生命を〔世の人々が〕自覚し獲得されることを祈っております。その霊性が開発されたときは絶対なる大霊、無量の光を備えた如来様、そして無量の寿命を備えた如来様と合一するのです。この心境に至りますと、如来様は真実の父親であると悟るのです。極楽は本来、私の故郷であることも覚るでしょう。ではどうすればその心境に至ることができるのでしょうか。それを教えているのが仏法なのです。仏法には数多くの教えがありますが、その中でも最も重要な教えは念仏三昧の教えです。その念仏三昧の修行法にもまた多くの方法がありますが、口に〔南無阿弥陀仏と如来様の〕聖なる名をお称えし、心にはお慈悲〔に満ちた如来様の〕お顔を想い、深く愛慕して、常に心から離れないように続けていくと、お慈悲のお姿があなたの想念の中に現れて下さいます。歩いているとき、じっとしているとき、坐っているとき、寝ているとき、あらゆる活動を務めているときを問わず、如来様を常に想って忘れることがなければ、必ず信仰の目的、人生の目的を成就することができるのです。もし、成就した場合は、如来様が常に共にいて下さるとの心境に至ります。如来様と共に生活しているのですから、〔来世のみならず〕、この現世もまた浄土となるのです。いよいよ臨終のときは、如来様は自ら来迎してくださり、共に極楽に往生するのです。こんな歓びが他にあるでしょうか。心から信頼し、頼っていくべきは如来様なのです。

解説

出典

『御慈悲のたより』一巻一頁

掲載

機関誌ひかり第718号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」