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発熱の文 14 至心に勧請す


至心に勧請す
三身即一に在ます如来よ 如来の真応身は在さざる処なきが故に 今我身体は如来の霊応を安置すべき宮なりと信ず 諸の聖者の心宮に在しし如く 常に我等が心殿に在らせ給え 今や己が身を献げて至心に如来の霊応を勧請し奉つる 霊応常住に我心殿に在まして転法輪を垂れ給え

現代語訳

真実の心をもって〔如来さまの聖なる身が私の心の宮〕にお宿り下るようお願い申し上げます。
 〔産みの如来さま、育て救いの如来さま、教えの如来さま〕の三つの身が一体である如来さまよ。聖なる方へと感応し導きくださる真実本体の如来さまの身は、在さないところはないのですから、今、私のこの身体は如来さま聖なる身を安置する宮であると信じます。
 諸々の聖者の心の宮にいらっしゃるのと同じように、常に私たちの心の宮にも在してくださいませ。
 今、私のこの身を〔如来さまに〕献げ、真実の心をもって、如来さまの聖なる身が〔私の心の宮に〕お宿り下るようお願い申し上げます。〔その〕聖なる身が永遠に私の心の宮に在して、高き導きをお与えくださいますようお願い申し上げます。

解説

①真応身と霊応(霊応身)―先ず「霊応」とは、「霊応即ち自己の本尊なり。常に我を指導し我が活動の原動力となるなり。道徳制裁の指導をなすなり。霊応は即ち如来なり。」 (『ミオヤの光』縮刷版一巻一八〇頁)とあり、「霊応」は「自己の本尊」であり「即ち如来なり」とあるから、「霊応」とは、他の御遺稿に説示される「霊応身」のことを指す。
  真応身についての説明は、弁栄上人の御遺稿にはなく、用例は『礼拝儀』やその前礼拝形式の「勧請」の箇所にのみある。ただ、『人生の帰趣』二六九頁の「信心のすがた」にある譬喩などによって、真応身と霊応身の関係を伺い知ることができる。 
  「喩えば、一月天に在て影万水に映ず。〔中略〕釈尊の聖意に現ずるミオヤの霊光、また文殊・普賢・観音勢至の聖意に映ずるミオヤの光も、善導源空其他大聖賢衆の心に輝く光も、乃至一文不知の愚鈍の尼入道の輩の信心中に感ずる処の霊応も決してかわることなし。如何にとなれば信心已に成ずる時はミオヤ常に我に在り。我れ常にミオヤに在り。斯くの如くして始めて信仰の生活と云うべけれ。
  恰も往昔教祖釈尊入涅槃の夜半中天に輝ける月が今宵我草庵の軒端を照す。月と空と他ならんや。況んや本来常住の月は永しえに照し亘りて信仰心水に入る。」
  ここで喩えられている「一月」(ただ一つの月)、もしくは「本来常住の月」が真応身であり、「影万水」(あらゆる水面に映る月)、もしくは、「信仰心水に入る(月)」、が霊応(身)であると受けとめられる。
  この譬喩、また他の御遺稿などを参照すると、「霊応」(霊応身)とは、個々人の心の中に宿り感応し導く如来さまであり、真応身は、私達に感応し導く、在さないところはない真実本体の如来さまである。

②帰命と勧請―「至心に帰命す」では、在さないところはないからこそ、此処(真正面)に如来さまがいらっしゃると信じ、この「至心に勧請す」では、在さないところはないからこそ、私の心中に如来さまが宿り導いて下さると信ずるというように、信仰の対象である如来さまの所在を明確に説き示し、また信心の方向性をも示しているのである。右記①の『人生の帰趣』の傍線を引いた引用箇所に、「信心已に成ずる時はミオヤ常に我に在り。我れ常にミオヤに在り。斯くの如くして始めて信仰の生活と云うべけれ。」とある。「ミオヤ常に我に在り」が、心の中にお迎えする勧請であり、「我れ常にミオヤに在り」というのが、身と心を捧げる帰命であり、この二種の信仰が確立して「始めて信仰の生活と云う」のである。

今月号は、『礼拝儀』「至心に勧請す」の現代語試訳を作成しました。他の弁栄上人の御遺稿を参照し、〔 〕によって加筆しつつ作成しています。今後、より正確な現代語を作成する叩き台となれば幸です。

出典

『礼拝儀』

掲載

機関誌ひかり第712号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」